先日、某大手買取専門店に行きました。

なんで行ったかというと、単純で、

「車を買い換えたいけど、どこか高く買い取ってくれないかなぁ?」

と思ったからです。


何せうちの車は走行距離17万キロで、17年ものですから(苦笑)


はっきり言って「買取専門店」に行くような「タマ」ではないんですが、某ズバッなんとかで一括査定を申しこんでみたら、なぜかすぐに電話が鳴ったわけでして。


それがこの某お店だった、ということなんです。


いやいや、何回も訊きましたよ、うちの車なんか本当に買い取ってくれるんですかって。


半信半疑どころではありません(笑)


でも、さかんに「少しは値がつくかもしれませんよ」と熱心に誘ってくれるんで、しかたなくそのお店には行く事にしました。


実は他にもメールがきたり、電話がかかってきたみたいなんですが、何社も比べるほどの効果はないぐらいは自覚しているんで、このお店だけに行きました。


ここで一応説明しておきますが、私、1990年代は某トヨタ系ディーラーで営業をしていまして、中古車業界のことも一般人よりは詳しいんです。


まあ、この件は伏せておきましたが。。。

元・トヨタ営業マンの独り言


夕方お店に行くと、こりゃこりゃ、一昔前の中古車屋さんとは大違いでして、お出迎えが5名、ぼろぼろの車を「お車」なんて言ってくれたり、綺麗なショールームでコーヒーをいただいたり、、、


ああ、この業界も変わったんだなぁ、なんて思っていたんですが。


いわゆる「営業マン」らしき人が、登場して、買取だけでなく、うちで車を買いませんか、と言い出した辺りから、雲行きが怪しくなってきました。


ディーラーで買取してもらってもこんな条件は出せませんよ!

(私、この業界のことあなたよりは詳しいですから)

うちは中古車屋ですから色んなメーカーの新車を引っ張れますよ!

(でもお宅はメーカーからは引っ張れませんよね)

うちは販売価格では負けるかもしれませんが、サービスは一流です

(買取して欲しいだけなのに)


パンフなるものを見てみると、

「買取から販売、メンテナンス保険まで」

ですか!?


いわゆる顧客の囲い込みでしか、競争に勝てないんですか?

(こんなこと僕がいたディーラーは20年以上まえからやっていたんですが。。。)


自立したユーザーにとっては少々ウザい感じです。


なんでも任せたいわー、何にもしらないわーというユーザーには楽園に見えるかもしれないですが。


あんまりにも熱心に、「私に全てお任せください」なんて、僕が1990年代に実際に使っていたくどき文句を言うもんで、なんか忍びない気持ちになり、それと興味半分で見積もりをとってみたら。


これはこれは、なんとまあ、大雑把な!とビックリしました。


ビックリした項目をいくつか挙げると


1 保証が10年つくけど、5万円以上かかる

(例えばトヨタの新車補償は5年10万キロついてますが、この分はまさか料金に入ってないですよね?)


2 ロードサービス料金

(これも今では任意保険に加入すると利用できたりします。JAF加入者もいるでしょう。一応確認してから試算に入れてほしいです)


3 納車費用

これが凄く高かかったですね。これをどうやってサービスするかが価格競合した時のポイントです。車庫証明費用も似たような特性があります。


他にも金利が凄く高かったりして、自立したユーザーは「単純に高く買い取ってくれるだけでいいのに」と思うかも?


そういうと「うちで購入してくれたら高く買い取ります」とか「もっと勉強できます」と言う言い方をしていましたが、これは「買取」と「下取り」をわからなくしてしまう話法です。


ここでは詳しく述べませんが、買取は一般的に「買い取ると、うちにメリットがある」と判断した場合は積極的におこないますが、「下取り」は、何かを販売すると同時に行うので、下取り車で損しても販売の方で得すればいいや、という考え方でもOKなんです。


で、今回のうちの車の場合、

「買取なんかできないから、下取りの方に話をもってけ」

という指示がでているんだろうな、と正直なところ思います。


しかし、こういう事情はユーザーにはやっぱり説明できないわけで、それゆえに、この業界は、今でも古臭い体質なんだなあという結論になります。


こんなことをお店で考えながら話を聞いていましたので、お腹一杯になってしまいました。


たぶん、今後、買取専門店には行かないと思います。


なぜなら車業界の常識である、「儲けるのは、整備と中古車販売」ということは今後も変わらないでしょうし、ならば、自分の方に主導権がある環境で車のことを考えたいからです。


以上、なんとも消化不良な体験でした。


ではまた、お会いしましょう!








こんにちは、石川です。


私もこの5月で49歳になりました。


いやぁ、歳を重ねたもんですね、心からそう感じています。


ところで、私はサラリーマンを15年前にやめましたが、もし、続けていたらおそらく「中間管理職」あたりにはなっていたのかもしれません。


15年前にも当然のことですが「会社の後輩」がいて、その面倒もみていたりしましたが、それは職務上というよりは、「何となく後輩から相談されたりする立場」だったからというところだったと記憶しています。


で、現在の私の同年代は職務として「管理者」になりつつあり、まさにその現場での「呟き」を聞かせてもらうことがあります。


例えば20代の若いし(土佐弁です。若者という意味です)を評価する時に、同年代以上の人たちがこう言っていたことがありました。


「最近の若いし(若者)は人に訊くことをしない」


自分が20代のころ、仕事上ではわからないことだらけでしたし、失敗しては学習するを繰り返していた記憶があります。


そんな自分は決して格好良くなかったとは思いますが、そうしないと仕事が進まないわけで、「人にわからないことを訊く」ということに特別な感情など当然持ち合わせていませんでした。


ただ確実にいえるのは、「小さなミスは沢山したけど、とんでもない大きなミスはそうしなかった」ということでしょうか。


今の私は20代の人とそんなに仕事で絡まないので、「そういう20代の気質」に気付かなかったのですが、最近それを思い知らされるできごとがありました。


うちの小学校の2年生の娘は自閉症スペクトラムなんで、いわゆる支援学級に通っています。


その支援学級にはうちと似た子どもが他に2人います。


その担当の先生がこの春から20代の若いしに替わり、しかもこの人が現場の経験がとても少ないということでして。。。


いやな予感はあったのですが、案の定、うちの嫁さんとは全くのコミュニケーション不足になりました(汗)


確かに、支援学級の子供たちは、確かに「手がかかる」のかもしれませんし、それを20代そこそこの先生に頼むのは確かに無理があるかもしれません。


そういう意味ではキャストのミスではないか、と言えるかも知れません。


しかし、うちの嫁さんと「連絡帳」でのやり取りで、その「困った事」を相談してくれれば、うちの方からも何かアドバイスができていたわけで。


が、これが全く「こっちに訊く」ということをしないし、他の先生に相談しているかどうかというと、、、、


つまり「彼流」で全てやろうとしているのです。


さすがにこの事態に気付いた時「最近の20代の人って。。。」というやつが頭を過ぎりました。


という話を仲間内でしていたら、「いやいや会社でも似たような人がいて」とか「そんな感じの若いしがいて本当に困惑した」という話が出るわ出るわ。。。


私は決して「ある一定の世代」を否定するものではありません。


しかし、一つだけ言いたい事があります。


それは

「こういう認識を、人を管理する立場の方は、肝に銘じていてください」

ということです。


この「わからないことを人に訊かない」という傾向が学校教育の影響なのか、それとも社会構造の影響なのか、全く他の原因によるものなのかわかりませんが、当人はなかなか気付かないと思いますので、彼らを管理する方が何か工夫をしないといけないと思います。


年寄りみたいに「最近の若い者は。。。」とは言いたくなかったのですが、ついついこぼしてしまいました。


ではまた、お会いしましょう!




こんにちは、石川です。


先日も書いたのですが、私は数年前から、障がいやご病気などで「金銭管理能力」が弱くなってきた人向けの福祉サービスの支援員をしてきました。


これは「日常生活自立支援事業」というサービスで、社会福祉協議会が、そういう不安を抱えている方の通帳とハンコなどをお預かりして、定期的に、約束した金額を届けるということを行っています。


ただ、これは単なる「お金を届ける」ことだけを目的とはしておらず、届けた際の「見守り」を重要視しています。


「家計管理」が難しくなるということは、いわばその人の生活環境が不安定になりつつあるということを意味している事が多く、実際に、精神障がいや知的障がいのある人や、ご高齢になり見守る家族がいない人がサービスの対象になることがよくあるんです。


例えば、私が週に一回お金を渡す際に面談するので、何かトラブルに巻き込まれていたり、不安定な精神状態になっていたり、生活環境や人間関係に変化が生まれていたりすると、それをキャッチできます。


つまり、状態が悪くなりそりそうな「小さなサイン」に気付く事ができる可能性があるのです。


むしろこれこそ、この日常生活自立支援事業の肝であると思います。




そういう支援とは別に、本当に「今日生きるお金や食料がない」状態で、助けを求めて社協の窓口にこられる「生活に困窮している人」を支援することもあります。


そういう方のご自宅に訪問してみると、おそらく、数年間~十年以上の間、ず~と荒れ果てた生活環境であったことを容易に想像できる方もいらっしゃいます。


その方が現在70歳であったとしても、お子さんが生まれた40年前は、もちろん、そうした生活環境ではなかったんだろうな、と思います。


様々な転機がありながらも、それを無事に乗り越えられない人もいれば、何とか家族や地域が支えてくれて、そのピンチを回避できた人もいることでしょう。


商売が上手くいかなくて、ますます空回りして自己破産して更に困窮する人もいれば、自己破産してしまっても誰かの力で支えられてきた人もいます。


私が目にするケースは「長い間、上手くいかなかった」ということが多いのですが、他方、困窮のスパイラルに陥らずに、見事に生き抜いている人もいるわけです。



そんな時、ふと思うことがあります。


なぜ、あの人は生活困窮から脱することができず、なぜ、この人は生活困窮から抜け出せたんだろう、と。


「人は一人では生きられない」


何かの本に書いてあった気もしますし、授業で聞いた気もします。


今まで、私はこの言葉の意味を本当に知っていたのだろうか?


そして、生活困窮者の支援をしていく場合、この言葉の意味はどこにあるんだろう?


そんなことを最近はよく考えます。



地域の中で生きることや、家族の中で生きること、つまり、「生きるのに不安を抱えている人」を一人にしないほったらかしにしない、ということが、その人が生活困窮にならない「大事な要素」であるならば、これから生活困窮者の支援に関わる方は、全力でこのことばの意味を考えなければなりません。


そういう覚悟を持った行政や支援者にしか、生活困窮者の支援はできないだろうし、曖昧な答えをよしとする支援ならば、一度は困窮から抜け出せても、またその人を元に引き戻してしまう可能性をはらんでいるのではないでしょうか?


私も覚悟して、この生活困窮者の支援に関わっていきたいと思います。