英霊の依頼 第1回目 タイ王国メーホンソン 2010年8月

日本の人々に我々がここで亡くなったことを伝えてもらえませんか?
 

 

 

 

1:英霊の言葉通り来日

 

 

     日本にやってきた彼女は日本での新しい生活を楽しんでいました。目にする自分の国とは違う文化、風景、食べ物、日本人との交流全てが彼女の五感を刺激し、さらに勉学・研究に一生懸命に取り組んでいました。そういった姿勢は彼女を研究生として合格させた面接官であり、彼女を受け入れた大学の教授の心にも安心感・信頼感をもたらした。彼女は持ち前の社交性で、日本人によく話しかけ、タイ料理を日本のご婦人に教えたり、日本の方々と旅行をしたりしながら、日本との交流を深めていった。


            また、彼女が日本で通っている大学とタイ王国チェンマイで彼女が働いている大学との国際交流にも進んで協力し、日本の大学が主催するタイ・エコスタディーツアーで留学先の日本からタイ王国チェンマイまで同行し、大学間の生徒・先生方の交流が円滑かつ有意義なものになるように務めたりもしていた。彼女は元々、ホスピタリティーの高い人間であったこともあり、こういった活動において、人のお役に立てることをすることに、幸せを感じる性格であった。


            日本の留学生活にも少し慣れてきた頃、ある日本人男性と会った。著者である私のことですが、私は正直タイ人女性というものに興味がなかったし、彼女そのものにも興味がなかった。これについては彼女も私の気持ちをわかっていたと言っていました。彼女についての第一印象と言えば、話しやすい感じの人だなと思ったぐらいでした。彼女の私に対する印象は私とは違い、少し興味があったようです。しかし、初めは友人としての範囲を超えなかったと言っていました。お互い、異文化交流という意味で、違う国で育った人間同士で刺激し合う部分があり、私は日本の良さや日本らしい場所を紹介してあげたいという気持ちで彼女に接していました。そして、彼女はまだ日本語能力に問題があり、彼女の留学生活の不自由な部分を、私がサポートすることにより、より日本での留学生活が快適になっていきました。彼女にとっては何かとわからないことを聞ける便利屋的存在を見つけ、日本での生活に気持ちの上で余裕が生まれました。二人は日本の有名な観光名所に出かけたり、私の家に遊びに来て、私の両親を通して日本の真の生活文化を知るようになっていきました。気がつけば、4人で外に出かけるようになり、自然と日本の中により深く馴染んでいくことになりました。


            時間の経過と共に、私と妻は、お互い気がおけない仲になっていました。友達以上恋人未満というところでしょうか。何でもお互いのことを話せるようになってきた頃、彼女は突然、タイ王国メーホンソンで出会った日本の兵隊の幽霊の話を始めました。それは彼女が日本に来たきっかけを私に説明する為には欠かせないものでした。『実は私、日本に来る前、タイのメーホンソンという場所のバンガローホテルで日本の兵隊の幽霊に会ったの。彼は私に、貴方は日本に行くから日本の人々に我々がここで亡くなったことを伝えて欲しいと言われたの。タイのメーホンソンには大学の仕事が休暇に入り、同期の先生方と一緒に遊びに行っていたのだけど、日本の兵隊の幽霊と会った後、ホテルをチェックアウトして、チェンマイの大学に戻ったら、文部科学省の奨学金制度の募集があったの。それを見て1週間で必要書類を作成して、申請したら、日本の大学から面接官がタイに来て、面接をされ、合格して日本に来ることになったの』とまるで不思議なことが起こったかのように興奮して私に説明してくれました。その話を聞いた時、私(著者)にとっては遠い場所での話というか、あまり現実味も無く、単純に『ふーん』とうなずくだけで興味が湧くことはありませんでした。彼女には申し訳ないのですが、聞き流していただけでした。私の中ではタイ王国に日本の兵隊が行っていたのかどうかさえ知りませんでしたし、学校の歴史の授業で戦争のことをそれほど深く勉強したこともなかったので、何故タイ王国のメーホンソンに日本の兵隊が戦争に行っていたのかが不思議でした。まったくトンチンカンに近い話で聞いていて、少しも好奇心を持つことが出来ませんでした。とにかく、ただ、『怖っ!』と冗談で言うことしか出来ませんでした。その時は信じていなかったというかどうでもいい話だったと思います。


            そんな彼女と出会ってから数ヶ月が過ぎた頃、彼女は私に対し、特別な感情を持っていたようでした。『私のことをどう思っていますか?』と聞かれ、私は戸惑ったのを覚えています。私はアメリカに少し語学留学の経験があり、その時、つらい思いを経験したので、彼女にはそういう思いをして欲しくないという思いから日本での良い友達になっていたつもりでした。しかしながら、そんな彼女の気持ちに沿うような流れで、気がつけば、世間一般で言われる恋人同士弱ぐらいには自然になっていったと思います。

 

 

2:帰国から結婚へ

 

 

    出会ってから半年が過ぎ、彼女が留学期間を終え、タイ王国へ帰ることになった。すると、彼女の方から、結婚を意識した発言が少しずつ増えてきていました。私は、自分が結婚するということは、当時、想像出来なかったので、答えをはぐらかしていました。結局、留学期間を終え、空港まで見送りに行きましたが、私からはっきりと結婚に関することには何も触れず、彼女を見送ることになりました。彼女は別れ際に、『まだビザの有効期間があるから、日本に遊びに来ます』と言って、笑顔で空港を飛び発っていきました。


            彼女はタイ王国チェンマイに帰ると、頻繁に私にメールをしてきました。1ヶ月前後が経った時、突然、私の家に数週間泊まりに行ってもいいですか?と連絡が来ました。うちの両親も、彼女のことをよく知っていましたし、快く承諾しました。結局、彼女はタイに帰国して一ヵ月後に日本に戻ってきました。私としてはなんとも先日別れたと思ったらすぐ会えたので苦笑いを浮かべていました。そしてこの状況を楽しんでいました。それから、結婚について真剣に考えるように彼女に言われたのですが、結局、それでも私は返事を濁しました。彼女は再びタイ王国チェンマイに帰り、メールでのやりとりが始まり、一度、タイ王国チェンマイに遊びに来てみては?と誘われ、初めてのチェンマイに観光気分で行くことになりました。渡航先のチェンマイはとても素晴らしい街で活気で満ち溢れていました。タイ風すきやき、焼き飯、タイラーメンを筆頭に様々な料理に舌鼓を打ちました。ナイトバザール(夜市場)ではアジアらしい民芸品に目を奪われました。現地に住むタイ人、海外から来ている観光客でごったがえしていて今まで経験したことのない活気に満ちた独特の空気を直に肌で感じることが出来、本当に楽しい気持ちを持つことが出来ました。


            二泊三日のタイ王国チェンマイへの訪問で彼女の生まれた国、働いている大学や彼女の周囲にいる人たちとのご挨拶を通して、彼女の素性をより深く知ることとなり、彼女を人生の伴侶としての可能性を少し受け止めるようになりました。帰国時にはすっかり彼女となら、なんとか人生うまくやっていけるかと思い始め、結婚について初めて前向きに考えるようになりました。あとはメールや国際電話などで信頼関係を築き、結婚への決断へと至りました。


            しかしながら、彼女は国費留学を終えていましたので、容易にタイ王国での大学の教職を辞めることはできず、その留学期間の倍の年数を働かなければなりませんでした。辞める場合には、条件があり、違約金のようなものを払えば可能でしたが、日本で日本人の旦那さんを探すので忙しく、勉学・研究をさぼっていたのではないかと思われるのも良くないので、結婚はしても彼女はタイ王国の大学でそのまま国費留学をした年数の倍の期間を講師として働くことにしてもらいました。その方が彼女にとっても、必ずプラスの選択で、後々、私たち自身、そして、職場、両国間で彼女の国費留学にご協力して頂いた周囲の人々にとっても納得のいく判断だったと思うはずだろうと思いました。


            それから数年間はタイに行ったり来たりの生活で普通の夫婦とは違った形の新婚生活を送ることになりました。しかしながら、何一つそのことについて文句や不満はありませんでした。最良の選択をしたとお互いが納得していたからだと思います。そして、気がつけば、子供が出来、タイ王国で産声をあげることになりました。

 

 

3:日本での家族揃っての生活が始まる

 

 

            結婚をして7年、ようやく家族揃って日本で一緒に住む話が出てきました。彼女の希望もあり、タイ王国チェンマイの大学で講師の仕事をしながら、現地の大学院へ通い、さらに別居生活が伸びたのが原因でした。家族というものを考えた時、これ以上バラバラに生活することは夫婦にとっては理解があっても、子どもにとっては良くないという結論に至ったことが日本で家族揃って暮らす話が出てきたきっかけでした。2008年~2009年にかけ、いろいろな諸事情の調整を図りながら、2009年にはしっかりと3人で日本に暮らすようになっていました。


            日本に来てからの生活は、長年の別居生活で生じた家族としての違和感を無くす為に時間を要しました。そして、子供にとっては、父親のいる当たり前の生活環境に馴染む為に時間をかけました。子供が9歳になった時に、子供に質問をしたことがありました。『たまにタイにお父さんが来ていたけど、その時、私のこと、どう思っていた?』と聞いたら、『知らないおじさんだと思っていた』と答えました。それを聞いた時、家族で一緒に暮らし始めたことは間違いのない判断だったと改めて思いました。むしろ、遅過ぎたぐらいだったのかもしれません。


            日本での家族揃っての生活が、おおよそ1年が過ぎようとしてきた頃、子供は日本語が少しずつ話せるようになってきていました。パソコンやテレビを通して、子供向けアニメを見て覚えていったようでした。幼稚園に入る頃はまだ日本語が完全に話せるわけでもなかったので、入園に際し、母子共にかなり不安だったようでしたが、子供も同級生の子供達と幼稚園で時間を過ごすことにより、他の日本人の子供と遜色が無いくらいに日本語が話せるようになっていきました。これでおおよそ日本での子供の言葉の問題は解消されていきました。