サムエル記上22章11~19節
〔新共同訳〕
【アドラムとミツパにおけるダビデ】(3)
11サウルは人をやって、祭司であるアヒトブの子アヒメレクと、ノブで祭司職にある彼の父の家の者をすべて呼び出した。彼らは皆、王のもとに来た。
12サウルは言った。
「アヒトブの子よ、聞くがよい。」
彼は「はい、御主人様」と答えた。
13サウルは言った。
「何故、お前はエッサイの子と組んでわたしに背き、彼にパンや剣を与え、神に託宣を求めてやり、今日のようにわたしに刃向かわせ、わたしをねらわせるようなことをしたのか。」
14アヒメレクは王に答えた。
「あなたの家臣の中に、ダビデほど忠実な者がいるでしょうか。ダビデは王様の婿、近衛の長、あなたの家で重んじられている者ではありませんか。
15彼のため神に託宣を求めたのはあの折が初めてでしょうか。決してそうではありません。王様、僕と父の家の者に罪をきせないでください。僕は事の大小を問わず、何も知らなかったのです。」
16王は、
「アヒメレクよ、お前も父の家の者も皆、死罪だ」と言い、
17傍らに立っている近衛兵に命じた。
「行って主の祭司たちを殺せ。彼らもダビデに味方し、彼が逃亡中なのを知りながら、わたしの耳に入れなかったのだ。」
だが、王の家臣は、その手を下して主の祭司を討とうとはしなかった。
18王はドエグに、
「お前が行って祭司らを討て」と命じたので、エドム人ドエグが行って祭司らを討った。
こうして、サウルはその日、亜麻布のエフォドを身に着けた者八十五人を殺し、 19また祭司の町ノブを剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた。
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(聖句雑感)
ああ、罪深い。
サウル王。
サウル王は、15章では主の命令を軽んじ「聖絶」せず、家畜のうち上等なものを取り分けた。されど、ノブの町では、見事にすべてを討った。85人の祭司、男も女も乳飲み子も牛もろばも羊も。
「神」と「自分」。
どちらの「思い」を優先するか。
「神の思い」は
「聖書」として
「神のことば」として
記録され残され知らしめられ続けている。
アヒメレクの弁明に耳をかさないサウル王。
王の命令でもさすがに祭司たちに手を出せなかった家臣たち。
結局、罪の上塗りのように
エドム人ドエグにその役割がまわってくる。
御言葉を思い出しました。
ヤコブ書1:14-15(新共同訳)
14むしろ、
人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
15そして、
欲望は はらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
人の「欲望」。
はらみ続けると「罪」を生み、
その「罪」が熟されて「死」を生む。
ドエグが孕んだ「罪」の行く末。
祭司に手をかけるのをふみとどまった家臣たち。
ある意味、ドエグによって助けられたのかもしれない。
「悪」の代行者となる「器」となるのは避けたいな、と思わされます。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解459p
早速サウルは、アヒメレク以下祭司たちを全員召喚し、最初から謀反と決め付けて詰問した(11-13)。
それに対し、全く無実のアヒメレクは、神の祭司として率直に、そして熱心にダビデを弁護し、身の潔白を主張した(14-15)。
〈私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか〉(15)という言葉の中に、神の御心を知り、その通りに行おうとするダビデの日常生活が描き出されている。
サウルは聞く耳を持たず、直ちに処刑するよう近衛兵たちに命ずるが、主と主の祭司たちを敬う彼らは、その命令に従うことが出来ない(17)。
業を煮やしたサウルがエドム人ドエグにそれを命ずると、異邦人であり、主を畏れない彼は、早速打ちかかり、祭司85人を虐殺する(18)。そればかりでなく、祭司の町ノブを打ち、老若男女を問わず乳飲み子に至るまで、そして家畜までも絶滅してしまう(19)。
■BIBLEnavi265-266p
サウルはヨナタンとダビデと祭司が陰でつながっているのではと疑っていた。彼の疑いは、ダビデが大祭司アヒメレクと話し、食べ物と武器を受け取ったことをドエグが報告したことから始まった(22:9-10)。
サウルの行動は、精神的感情的な不安定さと、神からどれほど離れてしまったのかを示している。
ノブにいる者を全滅させることで、サウルはこの町を申命13:12-17/13:13-18に記されている聖絶の対象とした(完全に破壊すべきと宣言した)。
聖絶は偶像礼拝または神への反逆があった場合にのみ用いられるべきであった。
しかし、神に反逆したのは祭司たちではなくサウルであった。
王がどれほど邪悪な暴君となりうるかが国民の前に明らかにされた。サウルの助言者はどこにいたのか。イスラエルの長老たちはどこにいたのか。時に神は悪が広がることを許し、邪悪な制度をはびこらせてはならないことを教えてくださる。
神に仕えることは、富、成功、または健康を保証するものではない。
神は善良な人々をこの世にある悪から守ると約束されるわけではないが、究極的にはすべての悪を滅ぼすことを約束される。
試練のときも信仰を守り抜いた者は、来るべき時代に大いなる報酬を受ける(マタイ5:11,12,黙示21:1-7,22:1-21)。
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■clay解説全文
祭司たちの虐殺
サウルの狂気
早速サウルは、祭司たちを全員自分のところに呼び寄せています。
(1)サウルは、最初からアヒメレクがダビデと共謀したと決めつけて詰問しています。
(2)これは、無実のアヒメレクにとっては驚きでした。彼は熱心に、しかも順序だててダビデを弁護し、さらに自らの潔白をも主張しています。
(3)しかしサウルは聞く耳を持たず、「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ」と宣言します。
(4)サウルは近衛兵たちに、ただちに処刑するように命じます。「近衛兵」というのは、死刑執行人たちのことです。しかし彼らは、サウルよりも正常な意識を持っていたので、その命令に従おうとはしませんでした。
(5)そこでサウルは、エドム人ドエグに死刑の執行を命じます。彼はエドム人であり、主を恐れることを知らない男でした。彼はその場で祭司85人を虐殺します。
(6)さらにドエグは、祭司の町ノブを打ち、老若男女を問わず乳飲み子に至るまで虐殺します。さらに、家畜のいのちまで奪います。
悲劇の原因
なぜこのような悲惨な結果になったのでしょうか。
(1)ダビデが身を守るために嘘をついたことが、遠因になっているのは間違いありません。この事件に関して、ダビデは詩篇52篇を書いています。読んでみましょう。
(2)サウルの狂気が直接的な原因になっています。このときのサウルには、憐れみの心のひとかけらもありません。神に背を向けた者が、いかに悪魔的になれるかという例がここにあります。
(3)神がこの悲劇が起こることを許されたのは、エリの家を裁くためです。2章には、エリの家に裁きが下ることが預言されています。これは、その預言の成就となっています。
サウルが祭司たちを虐殺し、ノブの町の住民たちを皆殺しにしたのは、決して赦されることのない重大な罪です。
一方神は、サウルの悪しき行動を容認することによって、エリの家への裁きを実行しておられます。
理解できないような悲劇が起こっても、神を疑ったり、非難したりしてはなりません。
いつか必ず、神の深いご計画がわかるようになるからです。
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きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたのみこころは深くて広いものです。有限な人間の知識と知恵をもって、あなたを非難することのないように、私の信仰を深めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第一16~17、使徒の働き1
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2024年5月27日(月)☀30℃
よいお天気です。!(^^)!
台風1号は 本島からずれていくようです。
大東島の方々には申しわけない感じです。
大東島は台風銀座。
常に台風の通り道となります。
大変な島だなぁと思ってしまいます。
行ったことはありませんが、
TVレポートなどで拝見します。
これからが本格的なシーズン。
被害のないようにと願います。
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clayさんのお勧め。
「理解できないような悲劇」に
神を疑い責めることのないようにと。
ほんとそうですね。
世の中には理解できないことが多い。
納得できないことが多い。
なぜ?と思うことが多い。
人は言う「神がいるなら!」
人が考える「神」とはどのような存在だろう?
誰でも「祝福」と「守り」を願う。
でも、聖書に触れていると
ほんとうの「祝福」とは何だろう?と
思わせられるときがやってくる。
なぜなら、
アブラハムさんも
ヤコブさんも
「得ていない」ように見えるからです。
21世紀に至っても
アブラハムさんに約束された土地は
いまだ現実のものとはなっていません。
10年や20年あるいは100年といった
人の短い生涯に目にみゆる”もの”が
本質的な神の「祝福」ではないことを知ります。
私的に、ヤコブさんを見て思ったことは、
「神の系図」に名をつらね、
「神の系図」を与えられたこと、
そのこと自体が大いなる祝福に見えました。
彼の兄のエサウさんは
財産的にはおおいに恵まれていたのです。
(それこそ「エドム」の系図、です)。
目に見えないことが多すぎて
不確かなことの方が多すぎるようで
なにかはかなくたよりなげで
だからこそ 「信ぜよ」と 先人たち言い続ける。
「信仰」の「目」で見えるものを
確かなものにしていく。
「神さま」をどこまで
信じ抜けるだろうか。
不安になることはない、
そんな風にすぐ答えはやってくる。
なぜなら、すでに、私たちは
「イエスさま」を
まるで見聞きしたかのように日々思わせられている。
イエスさまは、生き続けている。
ほんとに不思議なことです。
「イエスさま」の御業を見るだけです。
それだけで、見えない「神」が見えて来る。
と、そのように思えて
そうすると、ただひたすらに
「感謝」だけが 余韻となって沁みわたる。
「感謝」だけが込み上げて来る。
ハレルヤ
ほんとにイエスさま ありがとう。
尊き主イエスの御名を崇めて
感謝いたします。
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝させ給え。
アーメン