サム上20章③24~34「ヨナタンの憂い&サウルの怒り」…神のしもべの側に付く「祝福」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上20章24~34節

〔新共同訳〕

ダビデとヨナタン】(3)

24ダビデは野に身を隠した

新月祭が来た。王は食卓に臨み、 25壁に沿ったいつもの自分の席に着いた。ヨナタンはサウル王の向かいにおり、アブネルは王の隣に席を取ったが、ダビデの場所は空席のままであった。 

 

26その日サウルは、そのことに全く触れなかったダビデに何事かあって身が汚れているのだろう、きっと清めが済んでいないのだ、と考えたからである。 

 

27だが翌日、新月の二日目にも、ダビデの場所が空席だったので、サウルは息子ヨナタンに言った。「なぜ、エッサイの息子は昨日も今日も食事に来ないのか。」 

 

28ヨナタンはサウルに答えた。

「ベツレヘムに帰らせてほしい、という頼みでした。 29彼はわたしに、『町でわたしたちの一族がいけにえをささげるので、兄に呼びつけられています。御厚意で、出て行かせてくだされば、兄に会えます』と言っていました。それでダビデは王の食事にあずかっておりません。」 

 

30サウルはヨナタンに激怒して言った。

心の曲がった不実な女の息子お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも思っているのか。 

 

31エッサイの子がこの地上に生きている限りお前もお前の王権も確かではないのだすぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ彼は死なねばならない。」 

 

32ヨナタンは、父サウルに言い返した。

なぜ、彼は死なねばならないのですか何をしたのですか。」 

 

33サウルはヨナタンを討とうとして槍を投げつけた

 

父がダビデを殺そうと決心していることを知ったヨナタンは、34怒って食事の席を立った

 

父がダビデをののしったので、ダビデのために心を痛め、新月の二日目は食事を取らなかった

**************************************

(聖句雑感)

「心の曲がった不実な女の子」

「自分の母親の恥をさらしている」

??

なぜ、サウル王は

そんな言葉で嫡男ヨナタンを叱責したのだろう?

自身の「妻」でありヨナタンの「母」をこうまでして貶める?

 

ヘブルの民族的な、

なにかしらの「枕ことば」みたいなものだろうか?

 

サウル王の叱責は続きます。

エッサイの子がこの地上に生きている限り、

お前もお前の王権も確かではないのだ」!

 

これなのですね。

サウル王の「本音」。

 

「王権」を死守すること。

預言者サムエルからの託宣を受けても尚、

「主の御心」を謙虚に受けとめようとしない。

「王座」を諦めていないどころか、

むしろ、「抵抗」している。

 

されど、その子「ヨナタン」は違う。

サウル王のこの執拗な抵抗がなければ、

あるいは、王位継承は、

「ヨナタン」から「ダビデ」へと

主の御心通りに美しく行われたことなのだろう。

 

そんなことを思う。

 

様々な国の歴史に記録されてある

王位継承にまつわるおどろおどろしい

骨肉の争いや血の惨劇。

 

新たな「秩序」がはじまるとき

「血」が流されていく。

 

「聖書」は「血」の世界。

「血」が「命」であると明記されている。

 

レビ記17:11(新共同訳)

生き物の命は血の中にあるからである

そして、

血はその中の命によって贖いをするのである

 

「聖書」の神は「血」で契約なさる神。

 

神さまによって求められる「血」と

人がただに人のために求める「血」、

そこには大きな隔たりがあるように思えます。

 

願わくは、

流される「血」が

神の御計らいを受けられるようにと思う。

 

神の求めたもう「血」であるならば

その報いは、いかばかりか。

 

されど、「人」の生涯、

「血」を流すことなく

神からたまわった寿命を

ぞんぶんに生きてこそ、幸い

と、そのように思うのであります。

 

「平和」であるということは

そういうことなのだろう。

ハレルヤ

 

*********************************

解説を見てみました。

 

新実用聖書注解457p

新月祭の食卓にダビデが欠席した理由を、サウルは身の汚れであろうと想像したが(26,参照レビ15:16)、2日目も欠席したので、不審に思いヨナタンにその理由を聞いてみた(27)。それが、ダビデの家族の願いから出ているという答えに、サウルは激怒した。

 

王である自分よりも家族を重んじたこと自分を無視してヨナタンに頼んだことダビデを殺す機会を失ったこと王子ヨナタンでなくダビデが王位に就く危険を痛感させられたこと、これらの思いが一瞬のうちにサウルの心に渦を巻き、爆発したのであろう。ダビデに対する激しい怒りは、彼と親しくしているヨナタンに、またその母に対してまで向けられ、燃え上がった(30-31)

 

ヨナタンが率直に自分の疑問を父にぶつけると(32)サウルは怒りの余り、王子ヨナタンをも殺そうとして槍を投げつけた(33)。こうして、ダビデに対する父サウルの殺意が明白となった。ヨナタン自身も、もう食事を続けることが出来ないほど怒り、その席をけって外に出てしまった。愛する親友を父がこれほどまで侮辱したからである(34)

BIBLEnavi264p

新月の祭りには神にいけにえをささげるため(民数28:11-15)祭りに参加する人は神の律法に従い、儀式的にきよくなければならなかった(出エジプト19:10,民数19:11-12,ヨシュア:5の注も参照)

 

このきよめでは、神に近づきいけにえをささげる前に、身体と衣服を洗った。外側のきよめは、心をきよめ神との関係を正しくしたいという内側の願いを表していた。

 

今日、私たちの心はイエス・キリストが私たちの身代わりに死んでくださったことによって(ヘブル10:10,23)信仰によりまた神のみことばを読み心を傾けることによってきよめられる(ヨハネ17:17)

 

サウルは王朝が自分の代限りで終わることを告げられた後もまだ、子孫のために王座を確保しようとしていた(13:13,14)さらに悪いことに彼は神からの助けが得られないことを知っていたため、王位継承を罪深い人間的な方法でなしとげようとしていた。ヨナタンはライバルであるダビデを殺せば次の王位を狙うこともできたが、彼は神とダビデを愛していたのでこの好機を無視した(23:16-18)

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

clay解説全文

ダビデを弁護するヨナタン

新月祭の食事

いよいよ新月祭になり、食事の席が設けられました。

(1)この食事は儀式的なものであり、身を清めてからでないと食することのできないものでした。(2)食卓には、サウル、ヨナタン、そして将軍のアブネルが座っていましたが、ダビデの席は空になっていました。主の例祭を重んじるダビデが、今回のように欠席することはなことです。

(3)サウルは、ダビデは身を汚したのだろうと考えました。レビ記15:16には、このような規定があります。「人が精を漏らしたときは、その人は全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる」。

(4)ところが、翌日になってもダビデの姿が見えません。サウルがその訳を問うと、ヨナタンは、ダビデがベツレヘムまで行かせてほしいと願い出たので許可したと答えます。

サウルの激怒

ついにサウルは、激怒して本心を明かします。(1)怒りの理由は、ダビデが王である自分よりも家族を重んじたことにあります。また、自分を無視してヨナタンにベツレヘム行きを頼んだことも問題でした。しかし、最大の問題は、ダビデを殺す好機を失ったことにありました

 

(2)サウルはヨナタンを汚い言葉で罵倒し、「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない」と叫びます。サウルは、ダビデが王位に就くようになるというサムエルの預言を理解していたのです。

(3)ヨナタンは率直に自分の疑問を父にぶつけ、ダビデを擁護しようとします。しかし、サウルは怒りに燃えて、自分の息子ヨナタンさえも殺そうとします。

(4)ヨナタンは、食事の席をけって外に出ます。父サウルがダビデに殺意を抱いていることが明らかになったため、非常に落胆したからです。


ヨナタンの態度から教訓を学びましょう

 

神のしもべの側に付き、その人を支援することは、大きな祝福をもたらします

 

一時的に、それがいかに危険で犠牲が伴うことのように見えても、最終的には神の祝福が下ります

 

あなたは、神を恐れ、神を信じる人たちとともに歩もうとしていますか

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

きょうの祈り

全知全能の神よ。あなたを恐れ、愛し、仕え、主のしもべたちと協力して歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-***-*

年間聖書通読

サムエル記第一4~5、詩篇33~34

****************************************

2024年5月19日(日)☀26℃

 

よいお天気です。

感謝です。

 

昨日の安息日礼拝。

戦いでございました。

「行きたくない」という思い。

「休みたい」という思い。

時間が迫るにつけ戦いは加速します。

 

そして、結局、祈るのです。

口から出るにまかせただひたすらに異言で祈ります。

「異言」の祈りは何を口走っているのか自分では全くわかりません。この祈りは理屈ではなく、”霊”の戦い。この”霊言”の祈りが与えられていますことに感謝します。

 

すると、電話です。

妹はとても元気そうであります。

先日から彼女は「集会」を休んでおりましたが、

今日は礼拝に集うべく

私の送迎のために向かっています。

 

私もエイっと立ち上がり

さささっと身支度をしまして、

無事 彼女の車に乗り込みました。

 

この一瞬の戦いに、なんとか勝利できました。

感謝でありました。

 

「集う」こと、

このことにも都度に”戦い”であります。

 

「礼拝」へ「集会」へ

喜びいさんで出向く、

とはいかない者であります。

 

されど、「集う」ことは

主の御心、強いて言えば「命令」のようにも思い、

ひたすら「集い」、主の恵みと憐れみにあずかります。

 

~~~~~~~~~~~~~~

BIBLEnaviさんのおすすめに、

「きよめられる」とは、

「信仰により、主のみことばにより」

とあります。

 

そして、

clayさんのお勧めには、

「神を畏れ、神を信じる人たち」、

彼らの側につき、彼らを支援するようにとあります。

 

神を畏れ、信じる人たちと共に

歩もうとしていますか、との問いかけです。

 

相互に助け、助けられ、

相互に気づかぬ関係もあります。

 

詩篇34:8(新共同訳)

主の使いはその周りに陣を敷き

主を畏れる人を守り助けてくださった。

詩篇34:5

わたしは主に求め

主は答えてくださった

脅かすものから常に救い出してくださった

ダビデさんを窮地から常に救い、引き出し、引き上げてくださった主はまた私たちの主。主の御心に適うことを願うならそのように取り計らってくださる、我らの主。

 

主の御心に適うことを願い求めていけますようにと、願う。

 

ハレルヤ

尊き主イエスの御名によりて

常によろこび絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン