サムエル記上16章11~13節
〔新共同訳〕
【ダビデ、油を注がれる】(3)
11サムエルはエッサイに尋ねた。
「あなたの息子はこれだけですか。」
「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
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(聖句雑感)
「彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった」とありあす。やっぱり、「見た目」もよかったダビデさんですネ。?
人から好感を持たれる「見た目」は大事のようですネ。
「キリストの香り」とは「人」にどのような「印象」を与えるものなのだろう?受けてによってそれぞれ異なるのだろうか?
油注ぎを受けて以来、ダビデさんには「主の霊が激しく降るようになった」とあります。神から選ばれてその油を注がれる方は、好むと好まざるに関わらず「激しく降る主の霊」の影響を受けざるを得ないのですネ。「主に捉われる」というような感じすらします。主からの「使命」がそこにあり、「主の霊」とともに生きる「人生」の始まり。
ハレルヤ
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解452-453p
(抜粋)
ここで、サムエルが自分の思いと主の示しとを明確に区別出来たことは印象的である。彼は、真の預言者であった。
(略)
いずれにせよ、末の子のダビデは父エッサイに重んじられてはいなかったようである。このように大事な時に、この場に招かれもせず、ひとりで羊の世話をさせられていたからである(11)。しかし、彼こそが、主の選びの器であった。
彼は「見目」も麗しかったが、心も美しく、神の御旨にかなったいた(12)。<目が美しく>という言葉は、主イエスの言葉を思い起こさせる(マタイ6:22-23)。ダビデの実情が、彼の目に表れていたと言うことが出来る。
はっきりとした主の導きを受け、サムエルはこのダビデに油を注いで王とした。彼が公に王として認められるのは、相当の期間をおいて後であったが、<その日以降>主の御霊が激しくダビデに注がれ、彼は主の信任の器として用いられていくのである(13)。
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■BIBLEnavi206p
ダビデは油注がれた王であったが、油注ぎは秘密裏に行われ、公に儀式を受けたのははるか後だった(Ⅱサムエル2:4,5:3)。サウルは法的にはまだ王であったが、神は将来の責務に備えダビデを訓練しておられたのだ。
ダビデの頭から注ぎかけられた油は、神聖さを表していた。それは、人や物を神に奉仕すべく聖別するために用いられた。
イスラエルの王と大祭司はそれぞれ、油注ぎを受けた。これによりその人物を国民に対する神の代理として任命した。
神はサウルの子孫をイスラエルの王座に座らせないことで王座から退けられたが、サウル自身は死ぬまで王座に残った。
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■clay解説全文
ダビデへの油注ぎ
末の息子
人間の判断と神のそれとは大きく異なります。きょうの箇所は、その好例です。
大事な食事の席に招かれていなかった息子がいました。8番目の息子で、羊の番をしていました。
(1)父エッサイは、なんらかの理由でその子を評価していません。詳しい理由はわかりませんが、兄たちよりも低く見ていたことは確かです。
(2)サムエルはその子が来るまで、食事を始めないで待ちました。この時点でも、サムエルは自分がベツレヘムに来た本当の理由を隠しています。
(3)エッサイが人をやってその子を呼び寄せると、彼は見目麗しく、心も清く、神の御旨にかなっていました。主はサムエルに、「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」とお命じになりました。
この時点では、エッサイもその息子たちも、これは何か重要な任務につくための油注ぎであろうと、考えていたのです。
サムエルが油注ぎの真の目的を明らかにしなかったのは、サウル王を恐れたからです。
ダビデという名
サムエルは兄弟たちの真ん中で彼に油を注ぎました。
(1)彼の名は、ダビデと言いました。その意味は、「愛された者」というものです。この名は、御子イエスにそのまま当てはまります。ダビデはイエスの型です。
(2)ダビデはすでに主を信じる信仰者(新約的に言うと、聖霊による救いを体験していた人物)でしたが、油注ぎを受けると、主の霊が激しく彼に下りました。
これは、使命を全うするために必要とされる聖霊の力が与えられたということです。
ダビデには、王としての知恵、勇気、判断力、信仰などが与えられたのです。
(3)サムエルは安心してラマの自分の家に帰り、その後安らかに地上生涯を終えました。彼はサウルのために心を痛めましたが、今やイスラエルの救いを見たからです。
エッサイやサムエルがダビデを選んだのではありません。主が自らの手でダビデを選んだのです。
私たちも、外面的にはこの世から評価されないような存在かもしれませんが、イエス・キリストにあって神に選ばれた者です。
選ばれた証拠として、聖霊による証印が押されています。
神の霊に導かれる人は誰でも、神の子です。
きょうも、聖霊の声に聞き従いましょう。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。内側に与えられている聖霊を感謝します。きょうも、聖霊の声に聞き従いつつ、一日を過ごすことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
ヨシュア記13~14、ルカの福音書7
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2024年4月22日(月)☁27℃
朝の天気予報では、午後から大雨。
あたれば幸いです。
ダムの貯水量は62.9%。
70%越えまでもうひとふんばりです。
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今回のclayさんのお勧めにも感謝です。
「神の霊に導かれる人は誰でも、神の子です」
アーメン
主イエスの御霊によって祈れます幸いを思います。
末っ子でダビデは、
立派に兄たちの存在の前に
父親からそんなに注目してはもらえなかった。
彼の仕事は「羊の番」。
父親にもあまり気にかけてもらえなかったダビデさん。
でも、神さまは、毎日毎日、ダビデさんを見ていた。
たった一人での「羊の番」。
どのように「羊」たちを守っているか。
神さまは 御覧になっていた。
神の羊を養う「牧者」の器として
ダビデさんは合格した。
誰が見ていなくても「神」に見られている。
忘れてはいけないことだな、と思いました。
たとえどんなに小さなことにでも
「不誠実」はすべて神さまに見られてる。
ハレルヤ
尊き御名を崇めて感謝いたします。
常に喜び絶えず祈り凡てのこと感謝できますように。
主イエスの御名によって。
アーメン