サム上15章10~16節
〔新共同訳〕
【アマレク人との戦い】(3)
10主の言葉がサムエルに臨んだ。
11「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。
彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」
サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。
12朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届いた。
13サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」
14サムエルは言った。
「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」
15サウルは答えた。
「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」
16サムエルはサウルに言った。
「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」
サウルは言った。
「お話しください。」
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(聖句雑感)
主のことば。
「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」
神さまは、
「サウル」の性質をご存知であったはず。
「サウル」の失敗の可能性もご存知であったはず。
すべてをお見通しのはずであるのになぜだろう、
と思ってしまう。
神さまの「テスト」。
「試練」ともいう?
「人」には「自由意志」が与えられている、と教えられる。
だから、自らの「意志」で
すすんで「主に従う」道をとるか否か。
それを「主」は御覧になっている、ということなのだろか。
かの「ダビデ王」でさえ
醜悪な罪を犯してしまった…。
サウル王とダビデ王の違いは何だろう。
「サウル」の自己顕示欲と忍耐の欠如、
また、思い込み、
自身の都合のよいように物事を解釈して動くか、
自分に不利となると責任逃れをしてしまうか、
これまでの章ではそんな風に読み取れます。
神さまは、
「サウル」のどこに期待して、
彼を王に立てたのだろうか。
彼のリーダー性により
イスラエルは奮起した。
(というより、主の選びゆえに、
主がそうさせたのかもしれませんネ)
振り返れば、彼は、「従順」だった。
「父祖」を敬愛し、寛容で、
下の者の進言にも耳を傾ける柔軟性を持っていた。
そして、慎重さも兼ね備えていた。
さらに、彼の容姿はスバ抜けていた。
男らしく戦う者のリーダにふさわしい姿形をしていた。
だけど、次第に、
「選ばれた者」であること、
その「座」に安穏とし始めたのだろうか?
「人」は「権力」を握ったあと
どこまで「自分」を抑制することができるのだろう。
自分の思いのままに振舞える状態あり、
だれも抑制できなければ、
歴史上のさまざまな「人物」証明している、
その「所」へと向かうしかないような気がします。
皆が不幸になる。
時に神の制裁は「憐れみ」である場合もあるのだろう。
よく、犯罪者が捕らえられたあと
「ほっとした」「これで楽になれる」?
etc…などなど、意外な言葉を聞く事がある。
逃亡生活の果てに口にされるその言葉。
彼らの内に何が働いていたのだろう。
最後の「良心」が残っていたのだろうか。
(最後まであがく人物もいるだろうが…)
先日、礼拝の講壇で語られた。
「主の御手に陥ることはなんと恐ろしいことでしょう」
今一度、神を畏れる、
神を恐れる、ということ学びたい。
そんなこと思いました。
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解450-451p
<サムエルの怒り>
サムエルは、サウルに会う前に、その不従順について神ご自身から知らされた。
サウルの背信は、神に大きな痛みと失望を与えた。「悔いることがない」(29)神が、<わたしはサウルを王に任じたことを悔いる>(11)と、人間的な表現を用いられたほどであった。
サムエルも怒り、眠りにつくことも出来ず、一晩中主に叫んだ。その中で彼は、何とかサウルが王位にとどまる道はないものかと主にとりなしたことであろう。しかし、それはもう不可能であった。
そのようなサムエルの悲しみと怒りを少しも知らないサウルは、ユダの町カルメルに戦勝記念碑を立てて自分自身をたたえ(12)、会いに来たサムエルにも上機嫌で対応し、<主のことばを守りました>(13)と高言した。
では、なぜ絶滅したはずの羊や牛の声が聞こえるのかとただされると(14)、サウルは責任を民に転嫁し、その上、これらの最上の家畜を残したのは主へのいけにえのためだと言い逃れようとした。そして、その他のものは聖絶したと言い、むしろ自らの従順を印象付けようとした(15)。
それらのむなしい口実を並べようとするサウルを制し、サムエルは昨夜聞いたばかりの厳かな神のメッセージを彼に伝えた(16)。
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■BIBLEnavi259p
神はサウルを王にしたことを悔いると言われているが、これは神が間違いを犯したという意味だろうか。神がこう言われたことは悲しみの表現であり、間違いを認められたわけではない(創世6:5-7)。全知なる神が間違いを犯されることはありえない(15:29)。
したがって、神が御心を変えられたわけではない。しかし、サウルが態度を変えたときにサウルに対する態度を変えられたのである。
サウルの心は神にではなく、自分の利害に向かっていた。
サウルは自分自身をたたえるための記念碑を立てた。すべての栄誉を神に帰したモーセやヨシュアとは何という相違であろうか。
サウルはアマレク人に対して大勝利を得たと思ったが、神はそれを大失敗と見なされた。
サウルがご自分に従わず、戦果についてサムエルに嘘をついたからである。サウルは嘘はばれないだろう、あるいは自分のしたことは間違っていないと考えたのかもしれない。サウルは自分に嘘をついていたのである。
不正直な人間は、やがて自分の周りに張り巡らした嘘を信じ込むようになる。そして真実と嘘を見分ける力を失う。
自分自身の嘘を信じることで、その人は自分を欺き、神から離れ、あらゆる人間関係で信頼を失っていく。
結局は、正直な人間が勝利を得るのだ。
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■clay解説全文
サムエルへの主からのことば
悔いる主
神は人間とは違い、後悔することはありません。それなのに、きょうの箇所では、「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」と書かれています。何が起こっているのでしょうか。(
1)ここで神は、人間的な表現を用いてご自身の思いをサムエルに伝えておられます。従って、「悔いる」ということばは人間的にではなく、神の視点から解釈せねばなりません。
(2)神はサウルに対する態度を変更されました。サウルには条件つきの約束が与えられていたのですが、サウルがそれを破ったために、その約束は破棄されました。それが、「悔いる」ということばの意味です。
(3)サウルは神に背を向け、神のことばを守ろうとはしませんでした。それがサウルの問題だったのです。そのため、彼が王位から退けられることは決定的になりました。
サムエルとサウルの対比
サムエルは、サウルに会う前に主からのことばをいただき、サウルが命令に従わなかったことを知りました。
(1)サムエルは怒り、夜通し主に向かって叫びました。
(2)サムエルはサウルが王として成功することを心から願っていたのです。それで、夜通し無理だと知りながらサウルのために執りなしの祈りを捧げたのです。
それに対してサウルは、実に軽薄に振舞っています。(1)彼は、ユダの町カルメルに戦勝記念碑を立てて自分自身をたたえました。
(2)会いに来たサムエルに対しては、「主のことばを守りました」と答えています。
(3)なぜ絶滅したはずの羊や牛の声が聞こえるのかと問われると、彼はその責任を民に転嫁しています。
(4)さらに、最上の家畜を残したのは主へのいけにえのためだと言い逃れをしています。聖絶のものを主にいけにえとして捧げるのは、主への冒涜です。
(5)本当の動機は、貪欲のゆえに最上のものを奪おうとしたことにあります。
罪人が滅びるとき、義人は悲しみます。それ以上に、神ご自身が悲しまれます。
「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ。──だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル書18:32)という聖句を思い出しましょう。
私たちは、決して滅んではなりません。悔い改めて生きる者となりましょう。
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きょうの祈り
恵み深い神よ。どうか私に、サウルの心ではなく、サムエルの心を与えてください。滅びる者のために執りなす者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
ヨシュア記1~2、ルカの福音書3
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2024年4月5日(金)☀25℃湿度69%
午前中の予定がキャンセルとなり、
ぽっかりと空いてしまった時空。
遅れている「clay」さんに追いつこう!
とPCを開きました。感謝です。
解説を読み終えたあとは、
また違った思いも与えられ
教えられますから、感謝です。
ボキャブラリーの少ない私は
「解説」で使われる最適な表現に
いつも感心してしまいます。
感謝です。
サウルのしでかした「失敗」によって
心を痛めたのは「神」と「サムエル」。
当の本人は そんなことは露知らず
御機嫌上々です。
サムエルの苦悩、
一晩中 サウル王のために祈り続けたとあります。
そんなことは露知らず
ユダのカルメルに戦勝碑を立ててしまうサウル王。
「親の心子知らず」を見ているようです。
かつてサウル王は
「神の霊」が豊かに注がれ「預言」状態になりました。
そのとき、「神の霊」に触れ、
神のご性質を深く味わい知ることはなかったのでしょうか?
「神の霊」に教えられなかったのでしょうか?
「ことば」ではなく「霊」で、
そのご性質を感じ取ることはできなかったものでしょうか?
ひとたび権威が与えられると、
「自分=神」、
自分と神とを同列に置いてしまう、
そんな感覚に陥ってしまうのでしょうか?
「神を畏れる」感覚とは、
「ことば」のみならず、
その「霊」と「魂」で掴みとり、
また、教えられるものなのでしょう。
だから、
「神のことば」が与えられていれば
たえず「神のことば」に触れ、交わり、
「神の霊」が与えられていれば、
たえず「神の霊」に触れ、交わることが
必要なのかもしれません。
人はその「貪欲」のゆえに
神のものを奪ってしまう。
また、
不正直な人間は、やがて自分の周りに張り巡らした嘘を信じ込むようになる。そして真実と嘘を見分ける力を失う。
「不正直な人間」を やがては、
きちんと 神が裁いて下さるのだと知ると、
世にいう「正直者がバカをみる」のではないことを知ります。
「復讐するは我にあり」
「復讐」は「神」のなさること。
「正義」は「神」のもの。
必ずや、この「神」のもと
「不正」と「悪」が見過ごされることはない。
恐るべきかな、
主の御手に陥る者は。
主を心から恐れる者とならせ給え。
神を侮っていることがありましたら
示してくださいまして
悔い改めることができますように。
心を低くさせ給え。
ハレルヤ
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝させ給え。
尊き主イエス・キリストの御名によって
祈ります。アーメン
m(_ _)m
(^.^)
