サムエル記上14章31~35節
〔新共同訳〕
【ヨナタンの英雄的な行動】(4)
31この日イスラエル軍は、ペリシテ軍をミクマスからアヤロンに至るまで追撃したので、兵士は非常に疲れていた。
32兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べた。
33サウルに、「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」と告げる者があったので、彼は言った。「お前たちは裏切った。今日中に大きな石を、わたしのもとに転がして来なさい。」
34サウルは言い足した。
「兵士の間に散って行き、彼らに伝えよ。『おのおの自分の子牛でも小羊でもわたしのもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血を含んだまま食べて主に罪を犯してはならない。』」
兵士は皆、その夜、おのおの自分の子牛を引いて来て、そこで屠ることになった。
35こうして、サウルは主の祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇である。
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(聖句雑感)
「兵士は非常に疲れていた」
しかも「飢えている」。
「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」というサウル王の命令がある。
されど、とうとう、
兵士たちは、戦利品の家畜に飛びついてしまった。
したたる血に関わらず貪り食う様が見えるようです。
つい、ギデオンの戦いを思いだします。
士師記7章に記された「ギデオンの三百」。
主は少数精鋭軍を用いてミディアン人と戦った。
そのときの選抜方法がとてもユニークに思えました。
士師記7:4-8
4主はギデオンに言われた。
「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。
5彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。
「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」
6水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。
他の民は皆 膝をついてかがん水を飲んだ。
7主はギデオンに言われた。
「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に返しなさい。」
8その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。
彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミディアン人の陣営は舌に広がる平野にあった。
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初めてこの箇所に触れたとき、
私は 複雑な気持ちになりましたし、
自分自身の日頃の立ち居振る舞いなどを
ふと 思い巡らしたりしたものでした。
「犬のように舌で水をなめる者」
「ひざでかがんで水を飲む者」が
「犬のよう」だと表現されていて、
とてもショックだったのでした。
渇きに渇いた肉体は、
本能的になるのが自然で、
どんなに滑稽でも「そういうものだ」と私は思っていました。
「人間」だって「動物」…
「人間」だって「本能」は隠せない…
どこかにそんな風に思っていました。
たとえ、極限状態であろうとも、
「手で水をすくって飲む」という
人間らしく美しい所作ができた兵士たちを主は選ばれた。
実際、そのような所作で飲む人々は「いた」。
22,000人の中から
「恐れおののいていない」兵士10,000人が残り、
さらに10,000人の兵氏のなかから、
水を手ですくって飲んだ兵士「300人」だけが残された。
(倍率約73倍、約1.4%の兵士たち)
主の目に適ったこの「300人」は
13万5千人の敵に勝利する。
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無茶ぶりなリーダーってホント困る。
「災い」、かもしれない。
指揮する者によって戦団の命運が決まる。
今の日本国のリーダーたちを
選んでいる国民の責任も重いよね…。
運命共同体だ。
日本属国でかろうじて生き残るのか、
完全に異民族に乗っ取られて終わるのか、
それとも 最後に自国の足で立てるのか。
日本はどんな道を進むのだろう。
今回はそんなこと思いました。
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解449p
何も食べずに戦い、ミクマスからアヤロンまで追撃した民は、禁止期間が解けるや否や、分捕り物の家畜に飛びかかり、血も絞り出さずに、生肉をむさぼり食ったようである(31-32)。これは、神の律法に対するあからさまな背反(参照レビ17:10-14、申12:23-25)。行き過ぎた禁止が、通常では犯すはずもない罪を犯させてしまう契機となったと言うことが出来る。サウルも驚き、早速 石を持って来させ、血抜きが出来るよう配慮した(33-34)。そしてそこに、彼としては初めて、主のために祭壇を築いた。恐らく、そこで祭司に命じ、罪のためのいけにえをささげさせたのであろう。
申命記12:23-25(新共同訳)
ただ、その血は断じて食べてはならない。
血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである。
血は食べることなく、水のように地面に注ぎ出さねばならない。
それを食べてはならない。
こうして主が正しいと見なされることを行うなら、
あなたも子孫も幸いを得るであろう。
■BIBLEnavi257p
ヘブル人の食物に関する規定の中で、最も古く厳しいものの1つに、血を含む肉を食べることの禁止があった(レビ7:26-27)。この規定はノアの時代(創世9:4)に始まったもので、初期のクリスチャンたちもまだ守っていた(使徒15:27-29)。血はいのちを表し、いのちは神に属するものである以上、血を食べることは禁忌であった(さらに詳しい説明についてはレビ17:10-14を参照)。
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■clay解説全文
サウルが築いた祭壇
分捕り物に飛びかかる民
無意味な規則、厳格すぎる規則は、往々にして予期せぬ結果をもたらすことがあります。
(1)敵をミクマスからアヤロンまで追撃したイスラエルの民は、その日断食をしていたために疲れ切っていました。(2)彼らは、禁止期間が終わるとすぐに、分捕り物の家畜に飛びかかり、血のままでその肉を食べました。
(3)血を絞り出さないで生肉を食べるのは、モーセの律法の違反です(レビ記17:10~14、申命記12:23~25)。
サウルの愚かな誓いが、考えられないような罪を民に犯させる結果となりました。
(4)これにはサウルも大いに驚いたようです。彼は早速石を持って来させ、そこで血抜きができるよう配慮しています。
(5)その石はそのまま主のための祭壇ともなりました。これは、サウルが築いた最初の祭壇です。彼にはいけにえを捧げる資格はありませんでしたので、祭司に命じて、その祭壇の上で罪のためのいけにえを捧げさせたのでしょう。
私たちへの教訓
アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセも、主のための祭壇を築いています。しかし、これらの信仰者たちが築いた祭壇と、サウルの祭壇との間には、天と地ほどの違いがあります。
アブラハムを始めとする信仰者たちは、主に感謝し、主を礼拝するために祭壇を築いています。
しかし、サウルの祭壇は自らの失敗を覆うための見せかけの祭壇でした。
祭壇の意味もその力も信じていない者に、本物の祭壇が築けるはずがありません。
主イエスは、宮に上ったパリサイ人と取税人の祈りを例に取って、見せかけの信仰では神を喜ばせることができないことを教えてくださいました。
パリサイ人は、自らの行為を神の前に誇り、感謝しました。取税人は、心を痛めて悔い改めの祈りをしました。
そしてイエスはこう言われたのです。
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:14)。
私たちも、サウルの祭壇ではなく、アブラハムの祭壇を築こうではありませんか。
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きょうの祈り
天の父よ。どうか日々アブラハムの祭壇を築き、あなたに賛美と感謝のいけにえを捧げることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
申命記25~26、マタイの福音書28
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2024年4月1日(月)☀25℃
とても良いお天気です。
(^_^)気持ちよいです。
昨日の日曜日は
雷がとどろき稲光まんさいでした。
されど、不思議なことに、
教会堂へ入るとき、出るときと
雨が止んだのです。
主イエスさまの復活を記念する日。
神さまってなんて親切なんだろうと
感謝しました。
いつもながらのご配慮に
不思議心は尽きませぬ。
clayさんのデボーション日記、
遅れております。
追いつきたいと思います。
(^-^;
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今回のclayさんおお勧め。
アブラハムさんらの祭壇とサウルの祭壇の違い。
教えられました。
「見せかけの祭壇」。
主はどちらを喜ばれるだろうか、
と思いました。
「感謝のいけにえ」を
献げていける者となりたいと思いました。
また、
「新実用聖書注解」さんでは、
「行き過ぎた禁止が、
通常では犯すはずもない罪を
犯させてしまう契機となった」
とあります。
これもまた、
日常で起こしがちなことのよに思います。
「行き過ぎた禁止」。
「アレはダメ、コレもダ!」
むやみやたらに制することも
「罪を犯させてしまう」ことになる。
これもまた「罪」だなぁ。
バランスをとる力の必要を感じました。
ハレルヤ
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように
主イエス・キリストの御名によって
祈ります。アーメン
(^-^)