サムエル記上14章24~30節
〔新共同訳〕
【ヨナタンの英雄的な行動】(3)
24この日、イスラエルの兵士は飢えに苦しんでいた。サウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵に誓わせていたので、だれも食べ物を口にすることができなかった。
25この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があった。
26兵士が森に入ると蜜が滴っていたが、それに手をつけ、口に運ぼうとする者は一人もなかった。兵士は誓いを恐れていた。
27だが、ヨナタンは彼の父が兵士に誓わせたことを聞いていなかったので、手に持った杖の先端を伸ばして蜂の巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れた。すると、彼の目は輝いた。
28兵士の一人がそれを見て言った。
「父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています。」
29ヨナタンは言った。
「わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。
30今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに。」
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(聖句雑感)
この箇所を読んで、
ヨナタンの味わった「蜜」は私には
「聖書のことば」のように思えた。
日々の私(たち)にとって
「聖書のことば」こそ日々の糧。
力の源。希望の光。慰めの蜜。
サウル王は
自己顕示欲が尋常ではなかったのでしょか?
「私が敵に報復する前に…」
「わたしが」「わたしが」
なぜ、そんなことを命令してしまったのでしょうか。
空腹過ぎては 戦えるものも戦えません。
兵糧がないために
兵士が飢えていたわけでもなく、
「この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があった」とあります。すごいことです。
これこそ、主の恵み。
たとえば、
キャンディ1個ですら
どのくらい生き延びられるでしょうか。
そんなこと思います。
リーダーの判断ひとつで国益が左右される。
正しい判断のできるリーダーを擁する民は
なんと幸いだろう。
そんなこと思いました。
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解449p
神に問うことを途中で取りやめたサウルは、不必要に厳しいのろいをかけた断食の誓いを民に強要した(24)。それによって一種の熱心さを表したつもりだったと思われるが、これは愚かの極みであった。
民は、過酷な白兵戦を、空腹でふらつきながら戦わなければならなかったからである。
よく言われているように、この地は「乳と蜜の流れる地」であり、どこに行っても蜜は豊富にしたたっていた(25)。
誓いを恐れた民は、誰ひとり、それを口にしなかったが(26)、誓いの席にいなかったヨナタンは、ためらわず蜜を食べ、途端に元気を回復し、<目が輝いた>(27)。その後で初めて彼は誓いのことを知らされたが(28)、父の愚かさを批判している(29)。
民が分捕り物も食べず、疲れた体で戦いを続けていたため、戦果がもう一つ思わしくなかったことがわかったからである(30)。
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■clay解説全文
サウルの愚かな誓い
苦しむ民
指導者の愚かな決断は、民を苦しめることになります。きょうの箇所でも、サウルの愚かな誓いがイスラエル人を苦しめる結果となっています。
(1)サウルは、戦争のさなか、厳しい呪いをかけた断食の誓いを民に強要しています。その結果、民は空腹のまま過酷な白兵戦を戦わねばならなくなりました。
(2)森の中に入ると、あちこちに蜜のしたたりがありましたが、それを手につけて口にする者は誰もいませんでした。それは、誓いを破ることを恐れたからです。
(3)ただし、誓いの席にいなかったヨナタンだけは、ためらわず蜜を食べ、ただちに元気を回復しました。
(4)その後で、彼は初めて誓いのことを知らされますが、大いに驚き、父の愚かさを批判しています。
ヨナタンは、その日の戦果が予想したほどのものでないことを不思議に思っていましたが、今その理由を理解しました。それは、民が断食をしながら戦ったからです。
蜜を少し味わっただけでこんなに力が湧くとするなら、敵の分捕り物を十分に食べていたらどれほどの戦果を上げることができたことであろうか、というのがヨナタンの感想です。
私たちへの教訓
サウルの愚かさから教訓を学んでみましょう。(1)彼の判断は、熟慮の末に生まれたものではなく、その場の思いつきが言葉になったもので、実に愚かなものです。
(2)彼は、主のみこころを確かめることもしないで戦いに出るような軽薄な人物ですが、ここでは、見せかけの熱心さで自分をよく見せようとしています。確かに熱心ではありましたが、それは不純な動機から出た熱心さでした。
(3)サウルは、食事の時間も惜しんで敵を追跡したほうがよほどいいと判断したのでしょうが、そうすることで、人間の基本的必要に目をつぶったことになります。
人間には霊的、精神的必要と同時に、肉体的必要もあるのです。
私たち人間は、食事、睡眠、適度な休息などを必要としています。
肉体的必要を無視して、霊的なことばかり強調するのは、バランスを崩した教えです。
この箇所でのサウルの姿は、新約聖書のパリサイ人のそれに似ています。
見せかけの敬虔は、隣人を苦しめるだけでなく、神をも悲しませるものです。
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きょうの祈り
天の父よ。どうか私を、見せかけの信仰や敬虔から救い出してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
申命記23~24、マタイの福音書27
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2024年3月28日(木)☀&☁&☔23℃
行こう行こうと思っていた
「ライフセンター」へようやく行ってきました。
姉との用事で出かけた際、
ついでによってもらうことができました。
以前よりは広いのですが、
ちょっと暗い感じに感じました。
お天気のせいでしょうか。
奥の方にはカフェがありました。
今日は場所を確認するだけのつもりが、
結局、中川先生のご本を買ってきました。
「一日一章」全5冊です。
開くのが楽しみです。
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今日の箇所で、
思い出した聖句があります。
Ⅰテサロニケ5:23の一節に
「あなたがたの霊も魂も体も
何一つ欠けたところのないものとして守り」
というパウロ先生の祈りがあります。
「霊も魂も体も」。
この三つで一つの「人間」という存在。
「空腹」では戦えません。
「根性」だけにも限界がある。
バランスのある生き方の大切さを
教えられます。
ハレルヤ
今日nみことばに感謝いたします。
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように、
主イエス・キリストの御名によって
祈ります。アーメン
(^_^)