サムエル記上12章12~18節
〔新共同訳〕
【サムエルの告別の辞】(3)
12ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。
13今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。
14だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。
15しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。
16さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。
17今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。
それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」
18サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。
民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。
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(聖句雑感)
「サムエルが主に呼び求めると、
その日、主は雷と雨を下された」
(私たちの住むこの地域にも
サムエルさんのような方を送って頂きたい…💦)
人の手におえないはずの自然界すらも
「主」は意のままになさる。
そんなときも「主」は主が立てられた「人」を使う。
イスラエルの民が「王」を求めたのには、
私的にはどうしても
「祭司」たちの堕落も
関係しているのではないかと思えてしまうのです。
エリの息子たち、さらには
サムエルの息子たちですら堕落しています。
彼らの姿を見て「神を信ぜよ」というのも
人間の心情的に無理もあるのではないか…と。
サムエルさんは、
季節外れの雷雨をもたらし
「主」の力をお示しになりました。
そんな方が、なぜ息子たちの教育に失敗する?
(うがった見方でしょうか…)
一つの不信の苦い根は
右へ左へと「不信」の輪を広げてしまいそうです。
もう一度復習しますと、
イスラエルの民が王を求めた理由、
「1人の王が部族をまとめ、
1つの国、1つの軍隊とすること」を望み、
「民は周辺諸国のようになることを望んだ。
(BIBLEnavi249p)」
ここには「指導者としての神を拒む」という「神への背反」があり、神を排除した人による国家体制と運営を望んだ。
もともと「人」は「アダム」から受け継いだ「神への背き」のDNAが刻まれています。何かをきっかけにそれらの芽は吹きだしてくるのでしょう。その根はとかく「きっかけ」を見つけ出そうと必死なのかもしれません。「人」の中で眠っているそれらの「根」は深くて侮れないのですネ。
サムエルさんは続けて警告します。
「15しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。」
まるで、未来を見通しているような警告を忘れません。
サムエルさんが呼び起こした「雷雨」現象に、人々はいたく恐れますが、それでも、人々の心は「王政」への待望がやまないのです。そこに希望をかけて、そこに未来が広がっているのだと信じたいのです。
輝かしい未来をつかみとる。
ほんと、難しいことです。
世には成功する人は大勢います。
成功したからといって
彼らの中のどれほどが、
心から満足しているのでしょか。
さらなる「満足」を求めてその欲望は
果てしなく広がっていっているのではありませんか?
「人」は自分が「神」になるのだという究極の野望を成し遂げるまで多分に邁進し続けるのではないでしょか。
どこかで、
創造主なる神さまと
折り合いをつけねばいけませんよね。
今日は、そんなこと思いました。
「成功者」の1人1人が
正しく「真実なる神さま」と
おつきあいできる方々であることを望みたいです。
ハレルヤ
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解説を見てみます。
■BIBLEnavi254p
小麦の収穫は5月から6月にかけて、乾季の終わり近くに刈り取った。この時期は雨がほとんど降ることがないため、大きな雷雨は奇蹟と考えられていた。
しかし、人の益になる奇蹟ではなかった。小麦の収穫期に雨が降ると、作物が傷んだり腐れ易くなったりするためである。このような通常起こらない出来事は、イスラエルが王を求めたことに対する神の不快を表した。
神は王を求める民の願いをかなえられたが、ご命令と要求は変わらなかった。神こそが彼らの真の王であり、サウルと民は神の律法に従わなければならなかった。神の律法に例外とされる人はいない。
人間の行動はすべて、神の権限のうちにある。
神が人生のあらゆる領域を支配される真の王である。私たちは、神の王権を認識し、人間関係、職業生活、家庭生活を神の原則に従って形作らなければならない。
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■clay解説全文
王を立てるにあたっての勧告
アモン人の王ナハシュ
イスラエルの民が王を求めた次第は、8章に書かれていました。きょうの箇所にきて初めて、民が王を求めた理由はアモン人の王ナハシュの侵攻にあったことがわかります。
ナハシュは最初、ヨルダン川東岸にあったイスラエル人の居住区を攻撃し始めたのでしょう。やがて彼は、ヤベシュ・ギルアデを包囲するようになりました(11章)。ギブアにいたサウルがイスラエルの民を召集したのは、その後です。
(1)サムエルは、主が王として民を救ってくださるのに、人間の王が欲しいと言い張ったのは罪であることを指摘します。彼らはイスラエルの王である主を退け、人間の王を欲したからです。
(2)主は民の上に王を置くことに同意されました。これは、許容的御心というものです。そのようにして置かれた王が、サウルです。
(3)王が置かれた後も、モーセの律法は生き続けています。主の祝福を得るためには、王も民もその律法に忠実に歩まねばなりません。それが、主の御声に従うということです。
(4)もし主の命令に逆らうなら、先祖たちに下ったような主からの裁きが民の上に下るようになります。
雷と雨の奇跡
サムエルは、自らの勧告が主から出たものであることを明確に印象付けるために、奇跡を願い求めています。
(1)時は小麦の刈り入れ時、今でいうと5月末から6月にかけての時期です。この時期、イスラエルでは雨が降りません。
(2)しかしサムエルは主に呼び求めました。主はその祈りに答え、雷と雨とを下されました。
(3)これは、タイミングの奇跡です。通常はありえないタイミングで、雷と雨とが下ったのです。
これによって民は、自分たちの罪がいかに大きかったかを学び、主への恐れを身につけました。これ以外の方法では、自らの罪深さを実感できなかった者が大勢いたことでしょう。
私たちが頑なに一つのことを求めるなら、神は「許容的御心」によってそれを与えてくださる場合があります。
しかしその場合は、願ったことが実現したとしても、実際は神を悲しませていることになります。
自分で神を動かそうとする愚かな罪を犯していないかどうか、自己吟味をしてみましょう。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたの偉大なお姿をはっきりと見ることができますように、私の霊の目を開いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
申命記9~10、マタイの福音書22
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2024年3月21日(木)☀18℃
サムエルさんが引き起こした「雷雨」で
イスラエルの民は「恐れを身に付けた」との解説でした。
そうだったんですね。
「これ以外の方法では自分の罪深さを実感できなかった者が大勢いたことでしょう」とあります。
季節外れの「雷雨」という奇蹟。
自然の現象は人に「畏怖」の念を生じさせます。
イスラエルの人々はこれで
「王を求めた」ことの過ちに気づいたのでしょうか。
それとも「王政」への期待の方が勝ったでしょうか。
続きを読まないとわかりませんね…。
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それにしても
「許容的御心」なるものがあったのですね。
願いなさいとあるから願う。
求めなさいとあるから求める。
でも、実は
「神を悲しませている」ことがある、
とは、驚愕です。
そんなことあまり意識しません。
「親の心、子知らず」とはよく聞きます。
子の願いをしぶしぶ承諾する親は
どのような思いで子を見ているのでしょうか。
子は、
「親」の悲しみなどつゆ知らず。
ほんと、罪深いですネ。
されど、親の愛に感謝です。
子はいつか 気づくのだと思います。
また、悟らなければいけませんネ。
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今日も良いお天気です。
季節は確実に春と夏に向かっているようですね。
今日も御言葉ありがとうございました。
尊き主イエスの御名によりて
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
ハレルヤ
(^_^)
