サム上11章③「サウルの懸命な決断」「人の上に立つ指導者には、知恵と寛大さとが要求されます」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上11章12~15節

 

サウルの勝利と即位】(3)

12民はサムエルに言った。

「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」 

 

13しかし、サウルは言った。

今日は、だれも殺してはならない今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」

 

14サムエルは民に言った。

さあ、ギルガルに行こうそこで王国を興そう。」

 

 15民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた。

 

それから、和解の献げ物を主の御前にささげ、サウルもイスラエルの人々もすべて、大いに喜び祝った。

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(聖句雑感)

この箇所を読んでふと思ったこと、

それは、

 

「誰であろうと引き渡してください。

殺します。」という

民の発した言葉の持つ意味。

 

「あぁ、なるほど…、

民は、『神』より『王』を選んだのだな」と。

ようやくわかりました。

 

「生殺与奪の権」という言葉が浮かぶ。

「神」と「人」とが入り混じってしまいそうだ…。

「人」はどこまで許されているのだろうか。

 

サウルを先頭に民は宿敵アンモン人に勝利した。

勝利を喜び、酔いしれてもいいのだろう。

しかし、彼らは憚ることなく申し出た。

サウルを嘲り、王と認めなかった者を殺そう!と。

 

サウルさんは彼らをなだめ引き留めた。

「今日は誰も殺してはならない」

「今日は主がイスラエルにおいて救いの業をなされた」

サウルさんは「自分」を退かせ、

この勝利をまず「主」に帰しました。

 

「ギルガル」で国を興すことは

サムエルさんからの指示もあったのでしょうか。

 

「ギルガル」とはヘブル語で「転がす」が由来だそうです。「ギルガル」はヨルダン川とエリコの中間点に位置し、イスラエルのカナン征服の軍事的根拠地となった、とあります。

ヨシュアはここで新しい世代の者たちに割礼を行った(ヨシ5:7-9)、またカナンにおける最初の過越のいけにえをささげた。そしてその翌日マナの降ることがやんだ(ヨシ5:10-12)。ここは前述のようにカナン征服の根拠地となった。

---新聖書辞典442p---

「ギルガル」はある意味特別な「地」なのですね。

「王国」建国に向けて立つにはふさわしい「地」だったのかもしれませんね。神さまがこの地を選ばれた。

 

ただ、妙に思うことは、

「和解のささげもの」だけがささげられるところです。

全焼のいけにえがささげられていません。

 

この点は、あるメッセージ動画で気づかされました。

キングダムシーカーズの久保田師のメッセージでした。

★リンク☞2つのささげ物|久保田文吾 

 

これが後にどのように影響するのか。

孕んでいるものの不気味さというか落ち度というか、手放しには喜べない前途を感じて気分も沈んでしまいます。

 

モーセさんの時代、

戦いの場にモーセさんがいて、

手をあげて祈り続けていた姿が描かれていました。

「神」は常にともにいて戦ってくださっていたんですヨネ。

 

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この箇所との脈絡はないのですが

・・・・・

ふと、ネヘミヤ記を思い出しました。

 

ネヘミヤ記8:9b-10,12

「今日は、あなたたちの神、

主にささげられた聖なる日だ。

嘆いたり、泣いたりしてはならない。」

「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。

その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。

 

今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ

悲しんではならない

主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

 

民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである

この箇所は私の好きな聖句箇所の一つです。

この部分を読むと心癒され楽しくなります。

 

捕囚から帰還した民はエルサレムの城壁を再建した。

広場に集まった民の前で、祭司でもあり書記官でもあるエズラがモーセの律法の書を読み上げていく。第七の月の第一日。

レビ人たちはその書をつまびらかに「翻訳」し「説明」し「意味」を明らかにしながら読み上げた。民は理解した。

総督ネヘミヤ、祭司エズラ、レビ人たち、そして老若男女の民。

 

民の心に染み入っていく「神のことば」。

民はエズラに続いて、神をたたえ、「唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した」とあります。

 

食べて飲んで喜び祝う民の姿。

「神のことば」に涙する人々。

 

また、第16代、

ダビデから数えて第18代の

ユダ国の王ヨシヤを思い出します。

 

神殿修繕の折、

「律法の書」が発見されます。

「王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた」

とあります。

 

「神のことば」から遠く離れていた「神の民」。

離されていた、といってもいいのかもしれません。

もしくは、神を離れたのは民らそのものだった。

 

Ⅱ列王記23:2,歴代誌下34:30

王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた

「神のことば」を教えられ、理解する。

それは「喜び」となり「力」となる。

 

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士師の時代の終わり、時代は

イスラエルの民に「王」を求めさせた。

「王」に従うことを選んだ人々。

それが最善だと信じた。その時代。

 

一人のリーダーによって国家が形成されていく。

ともすると、

イスラエルの民に託された「神のことば」よりも

「王のことば」が民を支配していった?

「王」の影響力。「人」の影響力。

 

長くなりましたが、

そんなこと思わされました。

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解446p

戦いに勝って意気軒高の民は、先にサウルの即位に賛同しなかった者たちを死刑にしようと息巻いたが(12),サウルは神に栄光を帰し、彼らの申し出を退けた(13)。ここに、神から来る彼の寛大さと謙遜を見ることが出来る

 

サムエルの提唱により、約束の地に入った神の民が割礼の儀式を行った記念の地ギルガルで、改めてサウルの即位の式典が行われた(15)。民は主の前に礼拝をささげ、喜びにあふれた。

BIBLEnavi251p

サウルはラマでサムエルに油を注がれ(10:1)、次にミツパで公に選ばれ(10:17-27)、アモン人を打ち破ったことで人心をつかみ、王権を擁立した。この時点で、全民族が彼の統治を認めた。

 

イスラエル人はサウルを初代王としたとき、神に和解のいけにえをささげた。これらのいけにえをささげるときの教えについてはレビ3章に記されている。

 

和解のいけにえは、神への感謝の表現であり、神を知る者と神の命令に従って生きる者に与えられる平和を象徴していた

 

神は人々が人間の王を持つことを望んでおられなかったが、人々はいけにえを通して神が真の王であられることを表明した。不幸なことに、神がまさに予告されたとおり(8:7-19)。このような態度は続かなかった。

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clay解説全文

サウルの王権の更新

サウルの寛大さ

人の上に立つ指導者には、知恵と寛大さとが要求されます

 

きょうの箇所で、サウルは指導者として立派に振る舞っていますので、それを見てみましょう。


(1)戦いに勝った民は、その勢いで、先にサウルの即位に賛同しなかった者たちを死刑にしようと提案します。これは、10:27にあった内容のことで、そこには、「しかし、よこしまな者たちは、『この者がどうしてわれわれを救えよう』と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた」とありました。

 

(2)しかしサウルは神に栄光を帰し、彼らの提案を退けました。これは、神の知恵による寛大な処置でした。悔い改めた敵対者たちを殺害するよりは、自分の味方につけたほうがどれほどよいか知れません。復讐はなんの益ももたらしません

王権の更新

サウルはすでにミツパで王としての認定を受けていました(10:24参照)。そしてきょうの箇所では、ギルガルでサウルの王権の更新が行なわれています。

 

(1)ギルガルは、かつて約束の地に入ったイスラエルの民が、割礼の儀式を再開した記念の地です。

 

(2)民は主の前に和解のいけにえを捧げ、「契約の食事」を食して、サウルが王になったことを喜びました


この日の喜びは、サウルの懸命な決断によってもたらされたものでした

 

彼は生来の短気な性格を静め、寛容な心を示すことができました

 

また彼は、今回の勝利を自分の手柄にしないで、「主がイスラエルを救ってくださった」と語り、主に栄光を帰しています

 

サウルの王としての歩みは、最初は非常に良かったのです

 

しかし、最初の思いを忘れるところから、問題が広がり始めます

 

あなたは、いつも初心を思い出して歩んでいますか

 

神は、「初めの愛に帰れ」と叫んではおられませんか

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きょうの祈り

天の父よ。聖書の中では、晩年になって失敗する人が多く現われていますどうか私に寛容な心と、謙遜な心を与え、常に主イエスとともに歩むことを得させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

申命記3~4、マタイの福音書19

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2024年3月18日(月)☁20℃

 

「雨」がまた降らなくなりました。

雨よ降れ降れ 雨よ降れ!

 

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clayさんはおっしゃる。

「晩年になって失敗する人」は多いと。

 

身に沁みます。

 

なぜこうなった?

 

それは、歩みの中に隠されている。

「これぐらい~」

なんて思っていたこと

見過ごしてきたこと

断ち切れなかったこと

うやむやにしてきたこと

わかってなおやってしまったこと

改められずにきたこと

軽んじてきてしまったこと

 

やっぱり、これらの中には

「傲慢」さ「高慢」さがひそんでいる。

そう思います。

自分で気が付かないだけですネ。

 

でも、今更責めてもしようがないし、

蒔いた種は刈り取らなければならない。

 

積み重ねられた「負の遺産」は

だんだんと人を弱くしていく。

判断も鈍らせていく。

それらが、

「晩年」と言う時期になって

吹きだしてみなさいな……。

 

若さで「蓋」をしてきたモノが

「あらわ」な姿になって

あれよあれよと吹きだしてくる。

とどめようもありません。

消耗戦を強いられ、息絶え絶えになる。

 

でも、考えてみれば、

最後の憐れみかもしれません。

練られ練られて清められれば

なんと幸いなことでしょう。

 

「聖い者は神を見る」と

ありますからね!

 

また、

「魔が差す」って言葉もあるけれど、

パーフェクトに生きてきたようで

どこに「魔」が差されるかも

わかったものでない。

 

晩年になって失敗した人、

聖書に多い?

誰だろう……。

 

「失敗」は悲しい。

 

でも、わたし(たち)は

偉大なる成功者、イエスさまを見上げることができる。

数々の試練に勝利してみせてくださった。

イエスさまの勝利があるから

わたし(たち)もここに生かされている。

それを思うと 感謝にたえません。

 

イエスさまありがとう。

イエスさまの御救いはパーフェクトですから

感謝いたします。

 

尊き主イエスの御名を崇めて

感謝いたします。

 

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

ハレルヤ

 

今日は日曜日。

(^_^)

ちがう!

月曜日だ!