10章の学び④「指導者に批判はつきもの」「神に心を動かされた勇者とよこしまな者たち」「自己吟味」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上10章25~27節

サウル,油を注がれて王となる】(8)

25サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記し主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した。 

 

26サウルもギブアの自分の家に向かった。

 

神に心を動かされた勇士たちは、

サウルに従った。 

 

27しかしならず者は

こんな男に我々が救えるか

と言い合って彼を侮り

贈り物を持って行かなかった

 

だがサウルは何も言わなかった

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(聖句雑感)

「賛否両論」

「全会一致」のなんと難しいこと。

必ず「異を唱える」者らは存在する。

 

されど、

今回の「王」の選出は、

明らかに「民」の選択ではなく

イスラエルをエジプトから導きのぼった

「主」ご自身の選択であることを

「民」らも見たはずであった。

 

「従う者」と「従わない者」、

出て来てしまいます。

 

民数記13章「カナンの偵察」を思い出します。

各部族から1人ずつ、

12人の偵察者が送られましたが、

敵地の様子にビビって帰ってきました。

その土地に住む者らは「ネフィリム」だった。

 

それでも、

エフライム族のヨシュアと

ユダ族のカレブだけは宣言しました。

「断然上って行くべきです。

そこを占領しましょう。必ず勝てます。」

 

この差は何なのだろう、と思う。

 

「従う者と従わない者」

「おじけづく者と前進する者」

 

ヨシュアとカレブは言います。

もし、我々が主の御心に適うなら

主は我々をあの土地に導き入れ

あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」

 

そしてこう付け加えます。

ただ、主に背いてはならない

そこの住民を恐れてはならない

主が我々と共におられる

彼らを恐れてはならない。」

 

「主」への「信頼」と「信仰」。

ただ、それに尽きるような気がします。

 

 

いつの世にも、

「ならず者」と呼ばれる者たちはいるのですネ。

それが、アブラハムの子孫であっても。

 

でも、わたし(たち)にはいつでも

「悔い改める」チャンスが与えられていますから感謝です。

 

ならず者たちの「侮り」を受けても

サウルさんは 「黙」していた、とあります。

相手にしなかった。

また、彼らを説得しようともしなかった。

何か 思うところがあったのでしょうか。

無理をしません。

 

神のご意志には

喜んで従える者となれましたら幸いです。

 

ハレルヤ

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解445p

<サウルの沈黙>

サムエルは、「王の責任」を民に告げたばかりでなく、これを<文書にしるして主の前に納めた>(25)が、その内容は、8:11-12,申17:14-20に記されている事柄と一致するものであったと思われる。

 

ギブアの家に帰ったサウルに従って行った<勇者>(26)もいたが、一方、彼を軽蔑して贈り物をしなかった<よこしまな者たち>(27)(「ペネー・ベリッヤーアル)(価値のない邪悪な子ら)もいた。

 

後者に対し、<サウルは黙っていた>。

忍耐の沈黙であり、神を待ち望むよい沈黙であったと思われる

BIBLEnavi252p

イスラエルの王は他国の王とは異なり、王だけに定められた規則があった(申命17:14-20)。

 

異教徒の王たちは神と見なされた。彼らは自分で法律を作り、誰からも責任を問われなかった。これとは対照的に、イスラエルの王はさらに高い権威--天地の主--から責任を問われた

 

イスラエル人には今や周囲の諸国のように自分たちが望んだとおり王がいた。しかしサムエルは、王と民とを監督する責任をもって、イスラエルの王による統治が異教徒の王たちとは違うことを確認しようとした。

 

主の前に納めた」とは、サムエルが契約の証拠として、ミツパの特別な場所に巻物を置いたことを意味する。

 

男たちの中にはサウルの従者となった者もいたが、彼を軽蔑した者もいた。

 

指導者に批判はつきものである

それは彼らが先頭に立っているからである

 

このとき、サウルは自分に反対する者たちを気に留めなかった。しかし後に、彼は嫉妬に身を焦がすことになる(19:1-3,26:17-21)

 

あなたが先頭に立つときには、健全な批判には耳を傾けよう

 

しかし、あなたに反対する人間のことを気に病んで大切な時間と労力を消費してはならない

 

その代わり、覚悟ができていて喜んで助けようとしてくれる相手にあなたの注意を向けよう

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clay解説全文

サウルの沈黙

王国の憲法

サウルを王とした王政が正式にスタートしました。しかしこれは、王国の体裁がいまだに整っていない中でのスタートでした。

 

(1)サムエルは民に、王の責任を告げ、これを文書化して主の前(契約の箱の中)に納めました。この文書は、王国の憲法に相当するものです。

 

(2)こうしてサムエルは、民をみな自分の家に帰らせました。

 

(3)まだ王宮がなかったので、サウルもまたギブアにある自分の家に帰りました。王としての任命を受けたとはいえ、以前と何も変わらない生活が彼を待っていました。


サウル自身は、今後王国がどうなるか、また自分の運命がどうなるか、不安に思ったことでしょう

2種類の人たち

自信のない新王サウルに対して、2種類の異なった態度が見られました。

 

(1)「神に心を動かされた勇者は、彼(サウル)について行った」。このときサウルについて行った人たちが、近衛兵となり、サウルの軍隊の中核を形成するようになります。

 

彼らは、「神に心を動かされた勇者」と呼ばれています。彼らこそ、この時代の真の信仰者たちです

 

彼らはサウルに傾倒したというよりも、今サウルを盛り立てることが自分に与えられた主のみこころであると確信したのです

 

聖書が、「イスラエルの残れる者」と呼ぶのはこのような人々のことです

 

(2)「しかし、よこしまな者たちは、『この者がどうしてわれわれを救えよう』と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった」。

 

サウルを拒否した人たちは、「よこしまな者たち」と呼ばれています彼らは主のみこころを理解せず、いつも自分中心に判断し、動いている人たちです


軽蔑的な態度に会っても、サウルは黙っていました今は忍耐と沈黙の時であることを、彼は知っていたのですこの時のサウルの態度は、大いに評価できます

 

 

人類救済計画は、どの時代にあっても、「イスラエルの残れる者」と呼ばれる信仰者たちの手によって推進されてきました

 

今も神は、現代の「イスラエルの残れる者」を呼び集めておられます

 

アブラハムの信仰に倣う人たちこそ、真の信仰者です

 

あなたは、「神に心を動かされた勇者」ですか、それとも「よこしまな者」ですか

 

自己吟味をしてみましょう

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きょうの祈り

アブラハム、イサク、ヤコブの神よ。どうか私を、「神に心を動かされた勇者」の中に加えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

民数記33~34、マタイの福音書18

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2024年3月15日(金)☁&☀18℃

 

本年の確定申告最終日ですネ。

この時期、日本中で、

どれくらいの数の人々が申請し、

とれくらいの税金を納めているのでしょう。

 

国の立法機関に携わる者たちが

かいのめをくぐって「税」を納めない。

結局、これが 腐敗につながっている?

腐敗しているからこうなった?

 

よく「世襲議員」への批判を耳にします。

ただ、私的に思うところがあります。

 

「世襲議員」といっても、

「デモシカ」ではなく、

一代では成し得ない強い使命感が

連綿と続くのであれば、

それが、「一国」を正しくあるべき姿へと

導くものであれば大歓迎ではなかろうか。

積み上げられたモノをもって

さらなる次元に邁進できるのではなかろか。

 

「世襲議員」には、

より高い見識と強い意志と

高邁なる世界観と義務感と責任感を持って

この国を正しく導いて欲しいと願います。

「利権」の誘惑やしがらみに勝利してほしい思います。

自己中心な安寧さを捨てる勇気を持って頂きたい。

それこそ「勇者」であってほしい。

 

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今回のclayさんのお勧め。

 

「自己吟味」。

「よこしま」ではないかい?

 

(__)・・・。

 

自分の都合、自分の利益、

そちらを中心に生きているのが実情なのだろう。

 

自分以外の誰かのために生きる。

そんな生き方を選び取れる生き方。

 

ただ、そこにもやっぱり

「神」の御心を問う冷静さも必要となる。

 

「感情」や見当違いの「正義感」、

ってなことになってしまう危うさ。

 

それでもわからなかったら、

「やってみる」しかないし、

「やらない」ことも選択できる。

 

「やらない」で後悔するか、

「やってみて」後悔するか。

失敗した場合、得ることが大きいのはどちらだろう。

 

「神に心を動かされる」とは

「今」「そうする」ことが

「自分に与えられた主の御心」であると

「確信」できる!ということなのですね。

 

聖書にもありましたね。

何事も「確信」をもってすることだと。

「信仰」を持たずしてなすことは「罪」だと。

どこだったかな?

 

ありました。

(スマホ検索です(#^.^#))

 

ローマ書14:22-23(新共同訳)

22あなたがたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです

 

23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです

同文語訳14:23b

凡て信仰によらぬ事は罪なり

(アーメン))

 

信仰の「勇者」とさせてくださいますように。

 

ハレルヤ

 

本日もみことばありがとうございました。

尊き主イエスの御名を崇めて感謝致します。

 

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝させ給え。

アーメン

(^.^)