サムエル記上2章4~11節
〔新共同訳〕
【ハンナの祈り】(2)
4勇士の弓は折られるが
よろめく者は力を帯びる。
5食べ飽きている者はパンのために雇われ
飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み
多くの子をもつ女は衰える。
6主は命を絶ち、また命を与え
陰府に下し、また引き上げてくださる。
7主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。
8弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの
主は世界をそれらの上に据えられた。
9主の慈しみに生きる者の足を主は守り
主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。
人は力によって勝つのではない。
10主は逆らう者を打ち砕き
天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
主は地の果てまで裁きを及ぼし
王に力を与え
油注がれた者の角を高く上げられる。」
11エルカナはラマの家に帰った。
幼子は祭司エリのもとにとどまって、
主に仕えた。
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(聖句雑感)
正直、一読してすぐに、
「これって、『ハンナ』のことば?!」
って思ったのです。
ハンナさんの主への認識のなんと壮大なことよ、
と思ってしまいました。
なんとなく「男性的」な力強さを思わせます。
彼女の「主」への「知識」はどこから?
とふと思いました。
ヤコブの祈りとモーセの祈り。
ヤコブに「呪われよ」と言われたレビ族。
モーセに至っては、
「あなたの慈しみに生きる者」と呼ばれています。
「彼らはあなたの裁きをヤコブに
あなたの教えをイスラエルに示し、
御前に香をたき
祭壇に完全に焼き尽くす献げ物をささげます」
と祝福のことばを受けています。
ヨセフ族(エフライム&マナセ)は
ヤコブからもモーセからも祝福のことばを受ける。
特にエフライムは
「一つの民となり大きくなるであろう」と預言された。
レビ族のモーセ亡きあと、イスラエルは
エフライム族のヨシュアに率いられ、カナンの地に入った。
ヨシュア最期のことばも、
アブラハムから始まったカナンへの旅路を語る。
ユーフラテス川の向こうからヨルダン川を渡ってきた。
イスラエル民族が主とともに歩み戦った歴史を語る。
エルカナがエフライムに住むレビ族の1人で、もしハンナさんもレビ族かエフライム族の方だとしたら、代々に語り告げられてきた「イスラエルの神」「主」への知識はそうとうに深いものだったのかもしれないと想像します。
「ハンナ」さんの素地には
「主」への深い知識と信仰があったのですね。
きっと。
「先祖」の神を 聞き知って
その壮大な物語が彼女の内に脈々と流れていたのですね。
信仰深い「先祖」を持つものの幸い。
その中で育まれていく子の幸い。
もちろん、
真実の神を知る者の系図で、ですけどね。
ハンナさんの祈りの内容、というより、
このような祈りが自然にできる
「ハンナ」さんという人物に興味が湧いてしまいました。
「汝若きときに造り主を覚えよ」とは
伝道者の書(コヘレトの言葉)12章にありました。
同じイスラエルの神の内にありながらも
「ペニンナ」と「ハンナ」の生き方はこうも違ってくるのです。
等しく「聖書」の神を信じているといいながらも
それぞれがそれぞれに異なる生き方をしていくのも、肯けます。
「心根」が「主」によって「矯正」されていくことを受け入れなければいけませんね。「人が変わる」ということはたやすいことではありませんけどネ。
そんなこと思いました。
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解415-416p
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩126:5)。今、ハンナは、心よりの賛美をもって祈る(1)。
祈りの中でハンナは、主が<聖なる方>であり、全幅の信頼に値する<岩>(2)であり、<すべてを知る神>(3)、生殺与奪の権を握り、逆転のみわざを行う(6-8)さばき主にいますことを告白する。
5節に歌われているように、彼女は<不妊の女>としてあざけられていたが、現実に、多くの子供たちの母となることが出来た(参照21)。神の主権を歌うことは、取りも直さず、人の傲慢や高ぶりを戒めることである(3)。
人はみな、ペニンナも含めて(1:6)、「神の力強い御手の下に」(Ⅰペテ5:6)、おのれを低くしなければならない。
マグニフィカトと呼ばれるマリヤの賛歌(ルカ:46-55)は、このハンナの賛美によく似ている。マリヤは敬虔な女性であったので、この賛美もよく知っていたに違いない。彼女も、ハンナと同様の霊に満たされて歌ったのであろう。
10節に<油そそがれた者>(「ヘ」マーシーアハ、「ギ」クリストス)という言葉が出て来ることも、注目に値する。
■BIBLEnavi241p
ハンナは祈りに応えて息子を与えてくださった神をほめたたえた。
ハンナの詩的な祈りのテーマは、神の主権に対する信頼と、神がなさったみわざに対する感謝である。
イエスの母マリヤは、マグニフィカトと呼ばれる賛美をハンナの祈りにならってささげた(ルカ1:46-55)。
私たちもハンナやマリヤのように、人生に起こるすべての出来事について、神が究極的に支配しておられることを信頼し、神がこれまで与えてくださったさまざまな祝福に感謝すべきである。
すべてのよき賜物について神をほめたたえることにより、私たちは人生のあらゆる出来事を究極的には神が支配しておられることを認識するのである。
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■clay解説全文
ハンナの賛歌(2)
人生の逆転(4~6節)
前回に続いて、ハンナの賛歌を学びます。彼女は、主がもたらす人生の逆転劇について語っています。
(1)勇士が低くされ、弱いものが力あるものとされるようになります。
(2)パンに飽いていた者がパンのために雇われるようになり、餓えていた者が満ち足りるようになります。
(3)不妊の女が7人の子を産み、多産の女がしおれるようになります。7人の子とは完全数であり、「多くの子」を意味する言葉として用いられています。ちなみに、ハンナ自身はサムエルを含めて6人の子を産むようになります。
(4)主は生ける者の命も、死んだ者の命も支配しておられます。主はまさに、私たちの祈りに答えてこのような逆転劇を生み出すことのできるお方です。
メシア的王国の預言(7~10節)
次にハンナは、メシア的王国の預言を語っています。
貧しい者が栄光の位を継ぐようになるのは、メシア的王国が到来して以降のことです。その王国の中央に君臨されるお方が、「王」であり、「主に油そそがれた者」です。
「主に油注がれた者」の原語は、メシアです。ここは、メシアという言葉が初めて聖書に登場する箇所です。
ハンナははるか先に実現するメシアによる王国の成就を、聖霊によって予見することができたのです。
ハンナの歌は、イエスの母マリヤに引き継がれました。ルカの福音書1:46~55を見ると、マリヤの賛歌がハンナのそれとよく似ていることに気づきます。
マリヤはイエスの誕生を目前に控え、胎内の赤子こそ約束のメシアであることを理解したのです。それゆえ、メシア的王国を預言したハンナの賛歌が身に迫ってきたのでしょう。
ハンナとマリヤとは、ともに聖霊によって主の人類救済計画の高嶺を見ることを許された人物でした。
帰宅(11節)
幼子サムエルを祭司エリに渡して、エルカナとハンナとは帰路に着きました。幕屋にはそこで仕える女たちも多数いました。サムエルは、その中のひとりによって養育されたのでしょう。ハンナは母親としての情を捨てて、幼子の生涯を主の御手に委ねました。信仰者の決断がそこにあります。
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きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたのご計画は、人知をはるかに超えたものです。どうか私にもハンナが持っていた霊性を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
出エジプト記35~36、ヨハネの福音書15
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2024年2月12日(月)☀19℃
今日もとても良いお天気です。
過ごしやすい気候です。
連休最終日にふさわしいですね。
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「逆転のみわざ」。
そうですネ。
信仰のはじめ、
そんな「逆転のみわざ」を何度か経験して
おどろきの連続だった頃がありました。
こんなことってあるんだ、と
本当に神さまは私の味方なんだと
教えられていきました。
ただ、「失敗」の数を重ね、
「失敗」の質が落ちていくと、
取返しがきかない、ってこともあるのだと思います。
播いた種は刈り取る。
この原則を受け入れざるを得ない。
自分にも他人にも世間にも
どんな種を蒔いて行くか
若い人は 歯を食いしばって
賢く歩んで欲しいものだなと思います。
正直なところ、
今のわたしは、
めいいっぱいの「憐れみ」によって
生かされている、
そんな気がします。
先日、とある方のブログで
詩篇に登場する「コラ」について
拝見しました。感心しました。
そういえば、なぜ
「詩篇」に「コラ」があるのだろう?
と 不思議に思ったこともありました。
神さまのルールは厳しい、
されど、
神さまのご愛は深いのだなと思いました。
神の慈愛と峻厳とを見よ、
ですね。
できれば、
神さまのルールを軽んじることなく
神さまのルールから踏み外すことなく
その幸いを歩む人生の方が
どれほどよいことでしょか。
でも、道を踏み外したとしても
放蕩息子を出迎えてくださった
あの父のように
悔い改めて”父”を慕う者を
その御心に迎え入れてくださる、
なんとまた幸いでしょうか。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名によりて
今日のみことばに感謝いたします。