「ペニンナの陰湿ないじめ」「ハンナの苦悩」…旧約聖書では子のない女性は欠陥があると考えられていた | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上1章3~8節

〔新共同訳〕

サムエルの誕生】(2)

3エルカナ毎年自分の町からシロに上り、万軍の主礼拝し、いけにえをささげていた

 

シロには、エリの二人の息子ホフニピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。 

 

4いけにえをささげる日には、エルカナ妻ペニナとその息子たち娘たちそれぞれの分け前を与え、 5ハンナには一人分を与えた。

 

彼はハンナを愛していたが主はハンナの胎を閉ざしておられた。 

 

6彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。 

 

7毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ

 

今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。 

 

8夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよなぜ泣くのかなぜ食べないのかなぜふさぎ込んでいるのかこのわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」

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(聖句雑感)

「彼女を敵と見るペニナ」とあります。

「敵」、です。

 

あぁ、なるほどなぁ、と思いました。

同じ夫を持つ女性二人。

夫からの愛情をより多く受けていたのは

「ハンナ」の方だったのでしょうか?

 

創世記に登場する二人の姉妹。

ヤコブを夫に持つ二人の女性を思いだします。

女性として夫に愛されたのは妹のラケル。

ラケルにもなかなか子ができなかった。

 

女性として複雑になりますネ。

「母」として大切にされるのか。

「妻」として愛されるのか。

 

「新約聖書」には、こうありますネ。

Ⅰテモテ2:15(新共同訳)

しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます

「女性」にとって「子を産む」こと、

もちろん、我らの救い主イエスさまも

乙女マリアを通して誕生されました。

 

たしかに、世の女性たちが出産しなくなったら、人類は滅びるだけですネ。女性が子を産むことは大切な役割であり使命でもありますネ。

 

「彼女を敵と見るペニナ」。

 

多かれ少なかれ、人は「独占欲」を持つ。

「一人の夫に複数の妻」ともなれば熾烈だ。

さらに、競争相手に「子」がいないとなれば、

その蔑みはいかほどになるでしょか。

 

夫がハンナに気をつかえばつかうほど

一方の妻ペニナの敵対心は燃え上がる?

(こわい・・・。私的にはこんな世界耐えられません)

 

「幸せ」のかたちは人それぞれだと思うが、

その世代の皆が認める「幸せの図式」もあって

その枠からはみ出た者は なにやら肩身が狭くなる。

 

「子を産む」ことが「救い」となるはずが

それが 個の欲望とあいまって自身の優越の道具となっていく。

(救いどころではありませんネ・・)

 

されど

この「悲しみ」と「屈辱」とのゆえに、

「望み」をかけて全能の神の前にひざまづき祈る。

 

このことにもまた幸いを見る気がします。

「神」に祈れるかどうか。

 

夫エルカナはハンナに言う。

10人の子に勝る愛情を注いでいるよ?

「私」は「10人の子」にまさるでしょ?

 

私的にも、なんの慰めにもなっていないなぁという感じでアリマス。

しょせん、男性というのはこの程度ね・・。

 

ハンナが苦しんでいるのは、

もう一人の彼の妻「ペニナ」の存在であるのに・・。

 

人間関係って、むずかしい。

 

「敵対心」。

こわいです。

これほどまでに人を傷つける。

そして、傷つく。

 

これを受けたとき

どうすれば勝利できるのでしょうか。

 

ハレルヤ

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解435p

イスラエルの女性にとって、不妊は恥辱であり悲しみであった。ハンナはシロでの例祭のたびごとに(3)、エルカナのもう1人の妻ペニンナから、心の傷口に塩をすり込むようなことを言われ、食事も出来ないほど傷ついた(6-7)彼女にたいする夫の愛も、その傷をいやせないほどであった(8)

BIBLEnavi240p

ハンナは妊娠できずにいた

 

旧約聖書では、子どものいない女性は欠陥があると考えられていた

 

彼女の不妊は、夫にとって社会的は恥であった

 

子どもは社会の経済構造にとって非常に重要な役割をはたしていた。子どもは家族にとって労働力の源であり、年老いた両親を世話するのは子どもの義務であった

 

妻が子どもを生めない場合、古代中東の風習では妻の女奴隷を1人夫に差し出し、自分に代わって子どもを生ませなければならなかった。

 

エルカナはハンナを離縁することもできた(夫は不妊の妻とは離婚することが許されていた)世間の批判や市民法に基づく権利にもかかわらず、ハンナを愛し続けた

 

ハンナの妊娠を遅らせていたのは神のハンナに対するご計画の一部であった。ペニンナとエルカナがハンナの外側にある状況を見ている一方で、神はご計画を持ち、先に進んでおられた

 

 

あなたの身の回りで、神はいつ祈りを聞いてくださるのかと悩み、あなたの愛と助けを必要としている人々のことを考えよう

 

そのような苦悩にある人たちを支えることで、あなたは彼らが信仰にとどまり、神が自分の人生において事を成就してくださる期限について確信を持ち続けられるよう助けることができる

 

 

ハンナは自分が夫に愛されているとわかっていたが、夫の励ましですら慰めにならなかった

 

ハンナはペニンナの嘲笑を聞かずにはいられず、そのことばに自信を傷つけられてしまった

 

 

他人の不当な批判をやめさせることはできなくても、心ない言動に自分がどう対応するかは選ぶことができる

 

自分の問題にこだわるのではなく、神が私たちに下さった愛のある関係を楽しむことができる

 

そうすることで、私たちは自己憐憫を希望に変えることができる

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clay解説全文

ハンナの悲しみ

シロに上るエルカナ

イスラエル人の男性は、年に3度、主の宮(幕屋、後には神殿)に上って、主を礼拝し、いけにえを捧げるように命じられていました。この当時、幕屋はシロにあり、そこには大祭司エリのふたりの息子、ホフニとピネハスとが仕えていました。


エルカナは非常に律法に忠実な人で、毎年シロに上り、主を礼拝し、いけにえを捧げていました

 

そして、そのいけにえの中から自分の取り分を受け取り、家族とともに祝いの食事をしていました

 

妻のペニンナ、その息子たち、そして娘たちは全員、その食事にっていました

 

エルカナはハンナには2倍の量(あるいは、最良の部分)を与えていましたその理由は、不妊で苦しむ彼女を慰め、自分の愛を伝えるためでした

 

ハンナを迫害するペニンナ

 

ひとりの夫にふたりの妻がいると、妻同士は夫の愛を求めて対立するようになります

 

その場合、敬虔な妻のほうが迫害され、傷つくことが多いのです

 

この場合も、ペニンナは夫が自分よりもハンナを愛しているのを見て、ハンナを憎むようになります

 

それでなくてもハンナは子供が与えられないことで苦しんでいましたその傷に塩でもすり込むようにペニンナはハンナをいらだたせるような言葉を口にしました


ペニンナの陰湿ないじめは、毎年続きました

 

そしてついに、ハンナは悲しみのあまり、祝宴の食事さえ喉を通らなくなりました

 

まさに、詩篇42:3にあるとおりの状態です。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」。

 

そこで夫のエルカナは、ハンナを励ますために、「あなたにとって、私は10人の息子以上の者ではないのか」と語ります。

 

つまり、あなたは私の愛を得ているのだから、それは10人の息子を得るよりも良い状態ではないかというのです。

 

これは、ハンナに安心感を与えるための言葉です。エルカナは本当にハンナを愛していたのです。


私たちの心の痛みは、エルカナ以上のお方、主イエスによってのみ癒されるものです

 

キリストを知っていることは、すべてを得ていることなのです(ピリピ3:8)。

 

今、私たちの魂の牧者であるキリストによりすがりましょう

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。御子キリストを知っていることは、すべてを得ていることですキリストの栄光に与ることを、私は心から求めます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジプト記25~26、ヨハネの福音書12

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2024年2月7日(水)☁&☀18℃

 

今日も体感温度は低く感じます。

 

猫ちゃん、元気です。

ただちょっとストライキかな。

先日の「まぐろのお刺身」一切れ。

ついつい あげてしまいました。

 

療養食のオンパレード。

仕方ありません。

もとに戻るまで

忍耐勝負のはじまりでアリマス。

 

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昔の社会では

「子ども」は労働力、だったのですね。

また、将来の「介護」をあてにされた。

 

あぁ、なるほどなぁ、と。

アダムにかけられた呪い。

「人」は生まれたときから

そのような宿命を背負わされているのだなぁ、と。

 

昨今は、「生きがい」という言葉に

踊らされ?誤魔化され?「労働」を追いかける。

「勤労」と「労働」の違いは何だろう?

 

それでも、「聖書」では「勤労」を尊ぶ。

勤め励む者を奨励する。

 

ちょっと話しソレてきました。

・・。

 

「妊娠」は

人の努力ではどうにもできない領域でもあるのでしょう。

 

「不妊」に悩む方も多いと聞きます。

先日のTV報道で「卵子提供」の医療事実を知らせていました。

一組の夫婦にとって「血」の繋がる「子」への渇望がいかほどのものか、一人者の私には 想像を超えます。

 

一方で、実子への虐待の報道も後をたちません。

 

「血」のつながらない「子」を育てる選択も、また困難な道なのかもしれません。

 

人生で「埋められない」ものを抱えたとき、

人はどのように「これ」を扱えばいいのでしょう。

 

人生は、一人一人がその「重荷」を抱えて生きていくことになる。人それぞれ抱える「重荷」は違う。でも、それを抱えるしかない。

 

もし、その「重荷」を一緒に抱えてくれる方がいれば、その荷も幾分軽くなろうか。その荷を預ける先があれば幾分気も楽になろうか。

 

早々簡単にはいかない「人」の気持ちと実情のさまざま。

 

それでも、一度、その荷を

目には見えず触れることもできないが、

確実に「いらっしゃる方」に預けてみることを覚えると、

人生 そんなに悪くもないな ときっと 思える。

 

「イエス」という方の手をとる。

イエスさまの手はいつでも差し出されている。

あとは、ただ その手に気づくだけ。

そして、その手を握るだけ。

 

イエスさまの御手。

 

今日はそんなこと思いました。

 

今日のお勧め

キリストを知っていることは

すべてを得ていることなのです」って

ほんとスゴイですね・・。

 

ハレルヤ

尊き主イエスの聖名によって

今日のみことばに感謝いたします。

 

長くなりました

(._.)