「復活のメッセージは、私たちに生きる方向性と活力とを与えてくれます」…「最初の目撃者」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

マルコ福音書16章9~11節

(マタ28:9-10,ヨハ20:11-18)

〔新共同訳〕

結び―

マグダラのマリアに現れる

9イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された

 

このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 

 

10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 

 

11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった

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(聖句雑感)

イエスさまは、「まず」

「マグダラのマリア」にご自身を現わされた。

なぜ、彼女だったのだろう?

偶然?なのか?

イエスさまに限ってはそんなことはないのだろう。

 

本当は、とても嬉しい知らせなのに、

「泣き悲しんで」いることが精一杯で

マグダラのマリアが運んできたgoodnewsを誰も信じない。

 

マリアの話しにとびついて、

「え、ホント!?」

「いつ、どこで、どんな風に??」

と 質問攻めにしてもよさそうなのに。

 

あるいは、かえって

「泣き悲しんで」いる人たちは、

「マリア、とうとうおかしくなった?」

なんて 内心思いながら、また

「泣き悲し」み続けたのでしょか。

 

人々は「泣き悲しむ」ので精一杯。

死人が生き返るなんてありえないものね、人の世は。

最愛の方の死は「泣き悲しむ」しかない。

 

待望の「メシア」が

異邦人によって「木」にかけられて死ぬ、

イエスは「メシア」ではなかったのか、

なんて 失望もあったのでしょうか。

 

イエスさまを愛していたが故の嘆き。

だけど、イエスさまの復活が信じられない。

 

キリストの復活。

 

いわゆる「キリスト教」は

主イエスの「復活」なかりせば

もはや「キリスト教」ではないのです。

 

主はよみがえられた。

そして、また来られる。

 

今の世代のわたし(たち)は

ただこの望みによって生かされている

とまでいってもいいような気がします。

 

ハレルヤ

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解1390-1391p

現代では、ほとんどの学者が16:9-20が本来のマルコの本文には存在しなかったとの意見で一致している。(略)

 

しかしながら、イエスの復活が初代教会の福音理解の中心であった限り

(Ⅰコリ15:5以下、使徒1:22,2:32,3:15,10:41,13:31)

マルコが復活のイエスの顕現について一言も触れずに物語を完結することは、きわめて考えにくい(Cranfield.p471)。(略)

 

マルコの福音書が迫害下にあるローマのクリスチャンに宛てて記されたものだと考える時、「恐れ」の先にある、再会・平安・派遣という初代教会の流れで福音書が完結することを期待する方が自然であろう。(略)

 

では、8節が中途だとすれば、福音書の結びはどこに消えてなくなったのか、と問わなければならないわけであるが、なんら確固たる歴史的事実が存在しない中、最終的には、充分に納得いく説明はなし得ないとコメントせざるを得ない。

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clay解説全文

最初の目撃者

マグダラのマリヤ

きょうの箇所は、ヨハネの福音書20:11~18並行記事になっていますので、それを参考にしながら、より詳しく何が起こったのかを見てみましょう。

 

(1)一度墓を去ったマリヤは、再びそこに戻っています。彼女は、依然として誰かがイエスのからだを運び去ったと思い込んでいます

 

(2)その時、復活のイエス彼女のうしろに立たれました。しかし彼女は、その姿を見てもそれがイエスであるとは気づかなかったようです。イエスだと気づかなかった理由は、復活のからだがもとのからだからは大きく変化していたからです(ルカ24:16、31参照)

 

(3)彼女は、「マリヤ」という呼びかけの声で、それがイエスであることに気づきます

 

(4)イエスは、「わたしにすがりついていてはいけませんわたしはまだ父のもとに上っていないからです」と説明しておられます。

 

旧約聖書では大祭司は犠牲の血を持って至聖所に入る前に一連の聖めの儀式を行ないましたその儀式のあとでだれかが大祭司に触れたなら、大祭司は汚れを受けたことになり最初から聖めの儀式をやり直さなければならなくなります

 

ここでイエスは、天の至聖所にご自身の血を携えて上ろうとしておられました

 

この時点で、人間がイエスに触れることは許されなかったのです

 

女性の証言能力

マグダラのマリヤは、イエスの復活の最初の目撃者となり、嘆き悲しむ弟子たちにそれを報告に行きます。しかし弟子たちは、彼女の報告を信じようとはしませんでした

 

女性が最初の目撃者となったというのは、ユダヤ人の観点からすると非常に奇妙なことです。

 

というのは、当時のユダヤの法廷では、女性は証人とはなり得なかったからです。

 

もし弟子たちがイエスの復活をでっち上げたとするなら、最初の目撃者は男性にしたことでしょう

 

しかし、聖書は最初の目撃者が女性であったことを記録していますなぜでしょうか

 

それが事実そのとおりであったからです

イエスの復活は事実です


死後の命の確信を持った時、私たちの生き方はどのように変わると思いますか

 

復活のメッセージは、私たちに生きる方向性と活力とを与えてくれます

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。イエスが死んだことと、三日目に甦ったこととを信じますどうかきょうも、生きておられるキリストとともに歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジプト記13~14、ヨハネの福音書8

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2024年2月1日(木)☀22℃

 

夏日です。

当地はもう

寒気はやってこないそうな。

雨も降らないそうな。

 

お天気ばかりを喜んでもいられません。

「水」の恵み。

日本本土の豊かな自然を思います。

ペットボトルの飲料水。

感謝して使わせて頂いています。

 

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マルコ福音書の16章の後半。

あまりにも有名な聖句が続きます。

 

「マルコ福音書」は、私的に

16章8節後の「みことば」こそ「要」、

とまで言い切ってもいいような気さえします。

 

マルコ16:16-18

信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し

新しい言葉を語る

手で蛇をつかみ、また、

毒を飲んでも決して害を受けず

病人に手を置けば治る

それは、後代の加筆だった?!

となると とても衝撃的ではあります。

が、

 

信仰によってこの「ことば」が働く時、

この「ことば」が成就していくのですから

不思議ですネ。

 

齢93歳になる牧師さん。

「ハブ」と暮らした盲目の信者さん、

「ハブ」に噛まれて助かった信者さん、

「鼠駆除剤」を飲んで助かった信者さん、

そして、数々の病の癒し。

その頭にオリーブ油を塗って牧師が祈る。

泣き止まない赤ちゃんの舌の爛れが消えた。

曲がっていた右手が伸びたおばあさん。

腹痛でもだえたそのねじれた内蔵が搬送中に治った。

杖をついた弱視のお父さんは、

知らぬ間に馬の脚の下を通り抜けていた。

室内に閉じ込められていた戦場帰りの元兵士。

8か月の末に悪霊から解放された。

 

齢93歳の牧師さん。

まだまだ、不思議なことが多くって

まだまだ、話し足りません。

 

齢93歳の牧師さん。

伝道生涯70年。

戦中戦後の混乱の中、

数々のしるし不思議を見て来たのです。

まだまだ、語り尽くせません。

 

今の信者さんが、なまぬるいようにも

感じるのかもしれませんね。

 

「山をも動かす」信仰を働かせるコツ、

「からし種」一粒もあれいば事足れり、

というその「信仰」。

 

コツもなにも、

ただ信ずることだけですのにネ。

それが、なかなか、難しい―💦。

 

不純物をとりはらって

ただひたすらに真っすぐな信仰を

働かせることができますように。

 

ハレルヤ

 

今日もみことば ありがとうございました。

尊き主イエスの聖名によって

感謝いたします。

 

今日は、とてもよい天気です。