「イエスは復活されました。そして、今もなお生きておられます。ここに私たちの希望があります。」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

マルコ福音書16章1~8節

(マタ28:1-8,ルカ24:1-12,ヨハ20:1-10)

〔新共同訳〕

復活する

1安息日が終わると、マグダラのマリアヤコブの母マリアサロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 

 

2そして、週の初めの日の朝ごく早く日が出るとすぐ墓に行った。 

 

3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 

 

4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった石は非常に大きかったのである。 

 

5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 

 

6若者は言った。「驚くことはないあなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているがあの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 

 

7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさいあの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれるかねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 

 

8婦人たちは墓を出て逃げ去った震え上がり、正気を失っていたそして、だれにも何も言わなかった恐ろしかったからである

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(聖句雑感)

マルコ最終章に入りました!

感謝です(*^_^*)。

 

「震え上がり、正気を失う」ほどの光景。

「白い長い衣を着た若者」の御使い。

 

イエスさまも同様、

安息日が終わり、

日の出とともに動かれたはずですネ。

 

女性たちはがもっと早く来ていたら

あるいは、復活のイエスさまと

お会いできたのかもしれませんね?

でもそこには、

天使が先回りして彼女たちを待っていた。

 

彼女たちの動きもすべて

神は御存じだったのですね。

 

だけど、彼女たちは逃げ出してしまった。

「正気を失う」ほどの「恐ろしさ」?

 

天使の伝言を「だれにも言わなかった」。

 

goodnews!なのに。

これこそ「福音」なのに。

彼女たちは混乱してしまった。

 

予想外のこと、

それも非現実的な事象に遭遇すると

人は「恐ろしさ」が先にたつのですネ。

事態を飲み込むのに時間がかかる。

冷静な判断ができなくなる。

 

驚きがきてさらに恐れがきてしまう。

「正気」を失う。

 

天界のものに触れるとき

「恐ろしさ」が先にたつ。

「正気を失う」?

なぜだろう?

私には経験がないことです。

 

もし、この現場に

「ベタニアのマリア」がいたら

どんな反応をしただろう?

 

そんなこと思いました。

 

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解説を見てみました。

(長いですが引用します。)

 

新実用聖書注解1390p

御使いはあえて、<十字架につけられたナザレ人イエス>(6)と呼んだ

 

復活のイエスは紛れもなく十字架のイエスである歴史的なアイデンティティーを持ったナザレ人であり、ガリラヤを中心に伝道されたイエスである。(略)

 

<あの方はよみがえられました>(6)(「ギ」エゲイロー受動態)は、復活が神の働きによることを暗示している(参照:使徒3:15,,4:15,ロマ4:24,8:11,10:9,Ⅰコリ4:14,Ⅰペテ1:21)。(略)

 

<お弟子たちとペトロに告げなさい>(7)とあるように3度イエスを否み、自責の念に駆られるペテロを意識して語られた

 

御使いはまず空の墓を見せ、復活の事実を確認させた(6)

福音書の著者たちは、それぞれに復活の史実性の証明に努めている。正式に死が確認され、複数の立ち合い人のもとに葬られ、墓の入口にはふたがされた。更にマタ27:62-66には、石のふたに封印をし、兵士を番につけたとある。ここにおいて、イエスは仮死状態であったとの考えや、誰かがイエスの死体を盗んだとの仮定(マタ28:11-15)を退けている。

 

しかし、復活が事実であったことを伝える最大の要素は、第一発見者の女性たちの驚きではないだろうか

 

彼女たちは5節ですでに、予想だにしない展開と御使いの出現の故に、非常に<驚いた>。イエスが3日目に復活され、その復活の主にお会い出来るということが<前に言われた>(7)としても、イエスの確かな死と、埋葬まで確認した彼女たちにとっては、<震えあがって、気も転倒>(8)するほどの、常ならぬ出来事であった

 

彼女たちの驚きと恐れは、まさに復活の事実性を物語っている、そう考えると、8節の状況は自然な姿である。

BIBLEnavi1003-1004p

キリストの復活は、多くの理由で極めて重要である。

(1)イエスは、死人の中からよみがえるという約束を守られたので、他のすべての約束も守ってくださると信じることができる

 

(2)キリストの復活は神の永遠の御国の支配者は生けるキリストであり、単なる観念や希望や夢ではないことを保障する

 

(3)キリストの復活は私たちもまた復活させられることを保障する

 

(4)キリストのからだを死人の中から生き返らせた神の御力は私たちの道徳的、霊的な死に、いのちを回復させる私たちは変えられ、成長することができる(Ⅰコリ15:12-19)

 

(5)キリストの復活はこの世の人々に対する教会の証言に実質を与える私たちは、ただ単に優れた教師の生涯から学んだ教訓を伝えるだけではないイエス・キリストの復活という真実を宣言するのである

 

ペテロの否認にもかかわらず、イエスはペテロとご自分との関係を否認したり、ペテロを見捨てたりなさらなかった

 

そのことを示すために、御使いはペテロについて特に言及した

 

イエスは、まだ存在しない教会において、ペテロに大きな責任を任せようと思っておられた

 

御使いは、「前に言われたとおり」(14:28)ガリラヤでイエスにお会いできると弟子たちに伝えた

 

ここは、イエスが弟子たちの多くを召された場所であり、彼らを人間をとる漁師にしてあげようとイエスが言われた場所である(マタ4:19)。そして、この宣教が再度確認される場所なのである(ヨハ21章)

 

しかし弟子たちは、心が恐れでいっぱいであり、エルサレムで、閉められた戸の陰にとどまっていた(ヨハ20:19)

 

イエスは、彼らにまずエルサレムで会われ(ルカ24:36)後でガリラヤで会われた(ヨハネ21章)。それからイエスはエルサレムに戻り、オリーブ山から天に上がられたのである(使徒1:12)。

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■clay解説全文

墓を訪問する婦人たち

哲学者の目か歴史家の目か

 

四福音書に書かれたイエスの復活の記事は、細部において矛盾しているかのように見えます。それをどう考えたらいいのでしょうか。

(1)矛盾があれば、それは事実ではないとの結論を出すのが哲学者の目です。

(2)しかし、歴史家の目は異なった結論を出します。もし細部に至るまで全く同じであるなら、それは口裏を合わせた可能性が大です。同じ出来事を見ても、人によって異なった報告の仕方をするというのが普通です細部は異なっていても、中心部が同じなら、それは真実な報告であるということになります

 

復活は事実

そういう目で四福音書を読み比べてみると、おおよそ次のような事実が浮かび上がってきます。

 

(1)まず、マグダラのマリヤが墓にやって来ます(ヨハネ20:1)。彼女は、墓が空になっているのを見、ペテロとヨハネにそれを報告しています(ヨハネ20:2)。

 

(2)次に、二人の女たちがやって来ます。彼らは、天使の姿を見ています。その天使は、二つのメッセージを伝えます。イエスが復活したことと、復活のイエスが弟子たちとガリラヤでお会いになるということ。彼女たちは、ペテロとヨハネ以外の弟子たちのところに行って報告しています。その話を聞いた使徒たちは、すぐには信じなかったとあります(ルカ24:9~11)。

 

(3)マリヤの報告を聞いたペテロとヨハネは、墓に走ります(ヨハネ20:3~4)。墓の中を確かめた二人は、異なった結論をもってそこを去りました。

 

(4)マリヤは、再び墓に戻り、イエスに出会いますが、その御体に触れることは許されませんでしたイエスがまだ天の至聖所の清めを終えておられなかったからです

 

(5)他の婦人たちも、再び墓に帰って来ます。

この時、彼らもまたイエスに出会いますここで彼女たちは御足を抱いてイエスを拝んでいますマリヤに許されなかったことが他の婦人たちには許されていますイエスが、すでに天の至聖所の清めを終えられたからです


イエスの復活が作り話であるなら、弟子たちは婦人を第一発見者にはしていなかったでしょう

 

イエスは復活されました

そして、今も生きておられます

ここに、私たちの希望があります

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きょうの祈り

全知全能の神よ。主イエスの復活は、歴史的事実です聖書は、その事実を生々しく伝えています信じます感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジブト記11~12、ヨハネの福音書7

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2024年1月31日(水)☁&☀21℃

 

暖かくなってきました。

今日で、1月が終わります。

 

~~~~~~~~~

今日は1つのことに気づかされ、

1つのことをまた思い返しました。

 

墓にいた御使いが言います、

さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい

「ペテロ」と名指しされています。

ここもまた素通りして読んでしまっていました。

でも、深い「意味」があったのですね。

 

3度主を否んだペテロさん。

そうとうな落ち込みだったはずですね。

「弟子たちとペテロに言いなさい」とは

主のペテロさんへの特別な配慮だったのですね。

 

あらためて、イエスさまの御心の深さを思いました。

感謝でした。

 

そして、解説者たちがとくに強調している「復活」の「事実」。

「そうなんだ、そうだった」と思いました。

この私も、まずイエスさまの「復活」を信じたところから、キリスト教会に通い始めました。されどやってくるのです、「疑い」と「不信」。いつか「イエスは本当に復活したのだろか?」という思いがよぎります。そんなとき、パウロさんの言葉に出会います。

Ⅰコリント15:17

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります

Ⅰコリント15:14

そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です

Ⅰコリント15:19

この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です

このように言いきってくださったパウロさん。

この言葉によって 何度でも疑いをはらいのけることができます。感謝です。

 

ハレルヤ

今日も御言葉ありがとうございました。

尊き主イエスの聖名によって

感謝いたします。