ロマ書13:8~10「愛の律法①愛は律法の要約」<『愛』は完済不可能な借り> | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

ロマ書13:8~10

<新共同訳>

隣人愛

8互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても借りがあってはなりません

 

人を愛する者は、律法を全うしているのです

 

9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます

 

10愛は隣人に悪を行いません

だから、愛は律法を全うするものです

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愛の律法(1)

返すべき負債と、返せない負債

ローマ13:7でパウロは、「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい」と命じていました。「義務を果たしなさい」という言葉に触発されて、隣人との関係おける義務に話題が移ったのだと思われます。

 

きょうの箇所は、隣人との関係に関する教えです。今回は、8節だけ見てみましょう。


だれに対しても、何の借りもあってはいけませんただし、互いに愛し合うことについては別です他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです(8節)。

 

(1)何の借りもあってはいけませんとは、単なる借金以上のものを意味しています。これは、銀行からの借り入れを禁止しているのではありません。正当で合法的な経済活動は、許されています。この命令が教えているのは、人の世話になりっぱなしではいけないということです

 

(2)「ただし、互いに愛し合うことについては別です」とあります。ここでは、「互いに愛し合う」ということが、「借り」と認識されています

 

つまり、「互いに愛し合う」という「借り」完済不可能なものであるということです

 

日々の愛の実践は、利子だけを支払っているようなもので「愛するという借り」を完済することはあり得ません

 

愛は律法の要約

さらに、「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」とあります。

 

(1)「他の人」とは、教会外の人も含む言葉です

 

相手が信者であってもなくても、私たちはアガペの愛(自己犠牲の愛)をもって愛するのです

 

(2)隣人とは、私たちの周りにいる必要を抱えている人たちのことです

これが聖書的「隣人の定義」です

 

(3)この聖句は、外面的な行為だけでは律法を守ったことにならないということを教えています。パリサイ人の中には、律法の形だけを熱心に実行している人たちがいましたが、それでは律法の要求を満たしているとは言えません。

 

律法を知らなくても、愛を実行しているなら、その人は律法を完全に守っているのです


主イエスの教えに耳を傾けましょう

 

あなたがたに新しい戒めを与えましょう互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいもし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ13:34〜35)。

 

ここに聖書信仰の神髄があります

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。信仰の原点は愛であり、ゴールも愛ですそのことを思い出させてくださり、感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

申命記33~34詩篇27 ~ 28

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<3月2023:マーバレット:カインズにて>

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2023年4月6日(木)am8:00現在

☁&☀23℃/湿度79%/風速7m/s
 

けっこう涼しく

エアコンも暖房もいらない。

4月や10月頃は1年で最も過ごしやすいカモ。

これから夏に向かって

高騰するエネルギー料金と戦う日々が

やってくるのですネ・・。

(-"-)

 

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(雑感)

 

「聖書信仰の真髄」

「隣人愛」

 

「愛」というとき、

私的にかなりハードル高く感じてしまいます。

 

神の愛は「情動」ではなく、

ましてや一切の「感情」を超えている。

 

そんな「神の愛」を受けたわたし(たち)。

だからといって、

受けたその愛をそっくりそのまま

「自分」が与えることなど、不可能に近い。

 

されど、

「聖書」はいう、

「神のことば」には記される。

 

「互いに愛せよ。」

 

イエスさまが登場する「新約聖書」。

そこに散りばめられている「愛」。

ところが、ある日、

「旧約聖書」に全く同じことばを見つけた。

「レビ記19:18

復讐してはならない、民の人々に恨みを抱いてはならない。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

 

ここで、おそらく私もおそまきながら

ようやくはっきりと気がついた。

 

「新約」の神は「旧約」の神。

一つの神。同じ神。

 

「愛」とはどういうことかを知りたければ、

「旧約聖書」を読めばいいんだ、と

そのとき 思わされたのでした。

 

創世記から始まって、

出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と

モーセ五書と呼ばれるその文の中に

われらの「神」が「愛」と呼ぶ在り方が記されている。

 

たしかに、「聖絶」は、恐ろしい。

「日本人」?的には受け入れがたい。

 

されど、

「聖書」の神が「人」に教える「愛」の在り方。

「神に似せて造られた」という「人々」が「互いに愛する」「隣人を愛する」とは、どういう具体的な表現様式になるのか、ことこまかに教えている気がします。

 

主イエスの登場によって、その「愛」は「形式」から「真髄」を表現するに至りました。

 

その準備期間のなんと長いことよ、と思ってしまいます。

・・・。人間的に。

 

主イエスさまの登場を待ち望んでいたはずの多くの人々がいて、しかし、かれらは、その「彼」を見聞きすること及ばずにこの世を去った。

 

「今」という時代、

「今」という世代に生かされて在る者。

 

主イエスさまの登場のあとに在るわたし(たち)の幸い。

ほんとうに感謝です。が、のちに来る「千年王国」に住まう者たちの幸いを思ってやみません。

 

この頃は、

なにもかもが苦く、痛い。

 

動物の虐待のニュース。

戦争報道。

小児の事故。

あいつく事故、火災。

暴虐と偽りとあざけり。

世界のソドム化ゴモラ化。

観るに堪えない。聞くに堪えない。

 

たまらなく、

とにかく嫌でしょうがない。

 

ある国を見てみれば

エリートたちのくりなす茶番劇。

法も秩序もあって無きもの。

ちゃんちゃらおかしくてしょうがない。

 

「聖書」の預言通りなのですネ。

マタイ24:12

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える

マルコ13:12

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう

 

「不法がはびこり、多くの人の愛が冷える」

「不法」をはびこらせ続ける為政者たち。

 

「不法」がいや増すほどに「愛」は失われていく。

(「不法」というのはホント恐ろしいものなのだな)

 

「聖書」は言う。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる

 

最後まで耐え忍びなさい!と。

ぼけー汗・・・。

 

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尊き主イエスの御名を崇め

主イエスによって

父である神に感謝いたします。

(コロサイ3:17)

ハレルヤ

おねがい