ロマ12:14~16「愛の勧め⑨6つの勧め」<真の一致>とは? | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

ロマ書12:14~16

14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい祝福すべきであって、のろってはいけません

 

15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい

 

16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい自分こそ知者だなどと思ってはいけません

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愛の勧め(9)

6つの勧め

この箇所には、教会内の人たちに対して実行すべき6つの勧めが記されています。今回は、④ を取り上げます。これらの勧告を実行する力は、聖霊によって与えられます。私たちは常に、位置的真理を確認する必要があります(私たちが、キリストにあってどのような者とされているかということ)。

4.思いを一つにする

翻訳を比較してみましょう。

「互に思うことをひとつにし、」(口語訳)、

互いに一つ心になり、」(新改訳)、

「互いに思いを一つにし、」(新共同訳)。

この勧告は、ローマ教会の中に不一致があったことを暗示しています。

 

(1)ローマ2:17〜20には、ユダヤ人の高慢が指摘されていました。「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ神を誇りみこころを知りなすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」。

 

(2)ローマ11:17〜18には、異邦人の高慢が指摘されていました。「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです


当時の教会の中には、社会的身分が異なる信者が混在していました。奴隷の信者も自由人の信者も、ともに教会にいました。また、身分の高い者も混じっていました。これが不一致の原因になっていたであろうことは想像にくありません。

 

では、思いを一つにする方法とは、なんでしょうか

 

(1)まず、プライドがいかに危険なものであるかを認識することです

 

他の兄弟たちに対して優越感を抱いているなら、それは健全な霊的状態とは言えません

 

(2)一致とは、譲歩して他人の意見に歩み寄ることではありません

 

啓示された真理を理解し、それを共有することこそ、真の一致です

 

自転車の車輪のハブとスポークの関係を思い出しましょう。ハブ(中心)に近づけば近づくほど、互いの距離は短くなります。

 

聖書研究を通して真理を共有することこそ、一致への最善の道です

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きょうの祈り

天の父なる神さま。啓示された福音の真理を共有することによって、私たちの内に一致が生まれますようにみことばの学びを祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

申命記9~10マタイの福音書20

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<3月2023:キンレンカ:歩道脇にて>

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2023年3月23日(木)pm

☁&☀26℃/62%(エアコン稼働中)

 

晴れたり曇ったりのような日。

いましがたようやく”騒音”がおさまる。

何かのイベントでもあったのでしょうか。

元気のいい音楽と太鼓の音。

Wa~~~!というどよめき。

会場をしきるマイク音。

この時期に「体育祭」はないよねぇ?

聞きなれたWBC放送のイントロも流れる。

 

それでも、

こんな騒々しい日常も戻りつつある、

ということは 歓迎すべきことなのだろか。

 

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一致とは、譲歩して他人の意見に歩みよることではありません

啓示された真理を理解し、それを共有することこそ、真の一致です

(アーメン)

 

その「啓示された真理」が、

てんでバラバラなことが問題のような気もします・・・。

(-.-)。

 

それは、すでに「初代教会」の時から、使徒たちが生きて活躍している時代のときからもう「狭い道」は始まっていたことなのだから、この「道」をどうやって見いだし、かつ、その門をくぐり、そこから続く道を歩めるのかは、どうやって知り得よう。

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「七つの教会」を思います。

 

ただ、どの時代にも、

その「衣」を汚さなかった者らは

いらっしゃるようで、

なんと幸いなことでしょう。

 

「汚されない」ということは

なんと幸いなことでしょう。

 

「汚れ」は満ち満ちているゆえに

「汚れ」の海を渡り切るに

「汚れ」に染まらずして

生涯を全うできる者は

どれほどだろうかとおもわざるを得ない。

 

けれど、

それよりもなお優りたるは

怒涛のごとき汚れのなかにありて

なおもその志折れず

その目曇らず

鈍くなるとも

その歩みをとどめぬ者。

 

弱き者の「勇気」とは何だろう。

弱き者の中にも勇気はあるのだろか。

それは、どんな勇気だろう。

 

少しでもわかっているのなら、

ただひたすらに「実行」以外になく、

「実行」のない「ことば」は

ただひたすらに虚しく響くだけなのです。

 

絶望ではない

この苦しさは、なんなのだろう。

 

それでも、

ハレルヤ

 

尊き主イエスの御名を崇めて

感謝いたします。

われ(ら)には 

尊き御名が与えられたり。

おねがい