<新共同訳>
【机】
10次に、アカシヤ材で机を作り、寸法は縦二アンマ、横一アンマ、高さ一.五アンマとした。11それを純金で覆い、金の飾り縁を作った。12また、一トファの幅の枠で四本の脚を補強し、枠にも金の飾り縁を作った。12四つの金環を鋳造し、それぞれの脚の外側に付けた。14すなわち枠の高さに付け、机を担ぐ棒を通す環とした。15アカシヤ材で棒を作って金で覆い、机を担ぐ棒とした。16また、机で用いる祭具を作り、ぶどう酒の献げ物をささげるのに用いる皿、柄杓、水差し、小瓶を純金で作った。
【燭台】
17彼は純金で燭台を作った。燭台は、打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁が一体であった。
18六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付けた。19一本の支柱にはアーモンドの形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付けた。燭台から分かれ出ている六本の支柱を同じように作った。
20燭台の支柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付けた。21節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になっている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の支柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作った。22これらの節と支柱は支柱と一体をなし、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りであった。
23次に、七個のともし火皿、芯切り鋏、火皿を純金で作った。24燭台とこれらすべての祭具は重さ一キカルの純金で作った。
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「牧師の書斎」
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<clay>解説
〔パンを置く机と燭台〕
「パンを置く机(出25:23~30の成就)」
聖所の中に安置するパンを置く机も、【主】の命令通りに作られた。ここでも、命令と成就の関係がある(出25:23 〜30 の命令がこの箇所で成就している)。
机のサイズは、契約の箱よりも少し小さめで、89cm × 44.5cm × 66.8cm であった。
この机は、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕に向かって右側に置かれた。この机の上には、「供えのパン」(薄い種なしパン12 個)が置かれた。
(1)このパンは、イスラエルの12 部族が常に神の前に覚えられていることを象徴している。
(2)このパンは、週に1 度、安息日ごとに新しいものに替えられた(レビ24:8)。その仕事は祭司が行う。
(3)供えのパンは、聖別された物なので、祭司にしか食べることが許されていなかった(レビ24:9)。
(4)しかし、その供えのパンを、ダビデとその部下たちは食べた(1 サム21:4 〜6)。
当時、ダビデとその部下たちは、サウル王の追跡から逃れており、飢餓状態にあった。それで、命を維持するために備えのパンを食べたのである。主イエスはこの出来事を取り上げ、安息日の律法は人のためにあるのだと教えられた。律法によれば、人のいのちこそ最も大切にすべきものである。
(5)供えのパンは、イエス・キリストの型である。主イエスは、ヨハネの福音書の中で3 度、「わたしがいのちのパンです」と宣言された(ヨハ6:35、48、51)。
神は荒野でイスラエルの民を養われたが、新約時代においては、主イエスが私たちを霊的に養ってくださる。
「いのちのパンを食べる」とは、イエス・キリストを救い主と信じ、日々そのお方と交わることである。「いのちのパン」は毎日食べる必要がある。
日々のデボーションは、いのちの糧をいただく場である。
「燭台(出25:31~39の成就)」
燭台は、純金1 タラントから作られた(約30kg)。この燭台は、7 つの枝が付いていたので、「7 枝の燭台」と呼ばれた。金の燭台は、真っ暗な聖所の中を照らすためにそこに置かれた。祭司たちは、聖所の中で燭台の光に照らされて奉仕をした。
燭台は、イエス・キリストの型であると同時に、イエスをメシアと信じる人々やその共同体(教会のこと)をも予表している。
イエスの弟子たちは、「世の光」と呼ばれた(マタ5:14 〜17)。
クリスチャンには、この世に神の光をもたらす使命が与えられている。光の子として「光の中を歩む」、つまり「真理に従って歩む」ことを志そう。
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<clay>きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。きょうも光の中を歩むことができますように、私を守り、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
エゼキエル書26~27、
エペソ人への手紙2
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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8月28日(日)☆彡
26.3℃/56%(エアコン稼働中)
この「幕屋」の中に隠されている。
知りたい、と願います。
その意味で、
詳細な図解で解いてくださる
「牧師の書斎」さんに感謝します。
<clay>さんの導きに大感謝です。
「牧師の書斎」さんの解説を
そのまま引用できれば幸いですが、
長文なのでなかなか難しいです。
まだ読み込んでいないのですが、
「契約の箱に象徴されるイェシュア」の
印象に残りかつアーメンだった一文です。
・さらに重要なことは、神のみことばを聞くためにイスラエルのすべての人々(老人から子どもに至るまで)が公に集まることに、神が重きを置いておられるということです。
神のみことばを聞くだけでなく、それを学び、理解させて守り行うためです。特に、子どもも主のことばを聞くために主の前に集められるべきです。
聖書を読むために互いに集まるということを怠っているとすれば問題です。神のみことばだけでひきつけるものが十分ではないように思ったり、人々を集めるためにみことば以外の何ものかを加える必要があるように思ったりしているならば、神の民が「みことばは蜜のように甘い」という経験をすることは決してできないのです。「老人から子どもに至るまで」という神の指示を重く受け止めなければなりません。
アーメン
アーメンです。
お説教に立つ方々へ、
私も願うところです。
「みことば」「みことば」とおっしゃいつつ、その実は、現象のみに特化した談話に終始することが、果たしていいのかどうか。
私的に思うことは、個人的な信仰による体験的な「証し」は「みことば」(純粋な意味で)ではありません。大切なことではありますが。
極端な話し、
「みことば」の勧め、解き明かしなどが苦手であれば、せめて「朗読」することだけでもよいのではないでしょうか?
直接の「みことば」から 一人一人が必要を得て行く経験をしなければ いつまでも砂漠をさまよう者のように潤うに足りず、常なる渇きを覚える道ゆきになりましょう。
次の一文もアーメンでした。
「信仰的管理能力」
この能力を培う必要があります。
神は私たちに必要を与えてくださるからです。
その能力を培うことによって主の平安が心を支配するようになり、神への集中が可能となります。
使徒パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と愛弟子テモテを諭しています。必要以上に求めることは強欲であり罪です。それゆえ、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であり、それを求めたがゆえに、「信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテ第一6:6,10)と記しています。
「信仰的管理能力」
・明日のことを思い煩わないこと(マタイ6:34)
・与えられたもので満足すること(Ⅰテモテ6:6)
私自身、なかなか身についていませんが、七転び八起デス。
(-_-)
「自分」を捨てて生きることを、残された全時間をかけて学んでいる最中なのだと思います。
「自分」の「思考」をどこまで捨てられるかと、日々問うようなこの頃となりました。
おもわず、ブログに愚痴ったり呟いたりですが、吐き出してみるとまた案外冷静になれたりもいたします。
思わず、アメブロさんにも感謝です。
ハレルヤ
イエスさま 今日も
ありがとうございました。
皆の幸せ願います。
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