出エジプト記25:23~30「机」<供えのパンと注ぎのささげ物> | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

23アカシヤ材で机を作りなさい

 

寸法は縦2アンマ横1アンマ高さ1.5アンマ

 

24純金で覆い、金の飾り縁を作る

 

251トファの幅の枠4本の脚を補強し、枠にも金の飾り縁を作る。

 

264つの金環を作り、それぞれの脚の外側に付けるが、27枠の高さに付け、机を担ぐ棒を通す環とする。

 

28アカシヤ材で棒を作って金で覆い、机を担ぐ棒とする。

 

29皿、柄杓、小瓶、水差しを作り、ぶどう酒の献げ物をささげるのに用いる。これらは、純金で作る。

 

30この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい

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引用します。

 

※新実用聖書注解220p※

c. 机に関する指示(25:23-30)

机の上には<供えのパン>(30)が置かれる。また、<注ぎのささげ物>(29)についても言及があるので、飲み物にも関係している。

 

このパンについての記事は出エジプト記にはない。<机>(23)の意味については明確には教えられていない。

 

この机は至聖所の中ではないが、その近くに置かれる。これは、パンと飲み物はヤハウェから与えられることを示しているのであろう。

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<clay>解説

パンを置く机

次に取り上げるのは、聖所に置く机である。

 

(1)この机も、アカシヤ材の本体の上に純金を被せたものである。持ち運びができるように、金の環と担ぎ棒も作られた。サイズは、契約の箱よりも少し小さめである(88cm × 44cm ×66cm)

 

(2)この机は、至聖所の中ではなく、聖所に置かれた机の上には絶えず「供えのパン」が置かれていた

 

(3)供えのパンとは、「神の前に供えたパン」という意味である(出25:30、35:13、39:36、民4:7、1 サム21:6、1列7:48、2 歴4:19 参照)。

 

(4)これは、パン種の入らない丸くて薄いパンである。12 個のパンが、6 個ずつ2 列に平行に置かれ各列に乳香が添えて置かれた(レビ24:5 〜 7)。乳香は、パンの代わりに燃やして【主】に捧げた

パンが象徴するもの

パンの数は、イスラエルの12 部族を表している

 

(1)イスラエルの民は常に、自分たちが神の前を歩んでいることを自覚させられた。

 

(2)このパンは、週1 回、安息日ごとに新しく供えられた(レビ24:8)。

 

(3)パンを供える奉仕に当たったのは、ケハテ族である(1 歴9:32)。

 

(4)供えられたパンは、聖別された物である。従って、祭司だけが食べることを許された

 

しかし、ダビデとその供の者はこれを食した(1 サム21:4 〜 6)。つまり、聖別されたパンの規定は、律法的に解釈すべきではないということである。

 

イエスは、ダビデが供えのパンを食べたことを引用して、安息日は人のためにあると教えられた(マタ12:3 〜 4)。つまり、文字の規定よりも人間の命の方が重要だということである。


この箇所から、教訓を学ぼう

 

私たちは常に神の前に覚えられているそれゆえ、大胆に歩むことができる

 

律法主義と神の命令に従って歩むことの違いを学ぼう律法主義は、愛のない生き方で、人の魂を束縛し殺す。律法の真意を考え、人を生かす道を常に求めようではないか


さらに、パンの意味について考えてみよう

 

イエスは、ヨハネの福音書で3 度、「わたしがいのちのパンです」と語られた

 

(1)パンという言葉は、ユダヤ人にとっては非常に霊的な意味を含んでいる。

種入れぬパン

天からのパンであるマナ

供えのパンなどを思い起こそう。

 

(2)神は荒野でイスラエルの民を養われた。

 

(3)新約時代においては、主イエスが私たちの霊のとなってくださった。

 

(4)マナがそうであったように、「いのちのパン」もまた、毎日集め、食べる必要がある

 

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<clay>きょうの祈り

天の父なる神さま。どうか私を律法主義から解放してください喜んでキリストの律法に仕えることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

イザヤ書34~35、詩篇53 ~ 54

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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(雑感)

<パン>と<注ぎのささげ物>が置かれる「机」は、至聖所の近くの「外」に置かれた。(聖所の中ではありますね)

 

今回の箇所に触れながら、

ふと、「門の外」に置かれた「イエス」さまを思い出しました。自身の過去記事を探してみました。

 

「宿営の外」「門の外」というワード。

「私」なりのイメージが浮かんできたものでした。

正しいかどうかわかりませんが、私的に「主の業」を見る一つの視点となっています。

 

イエスさまの業の「過酷」さを思わされたのでした。

 

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7月2日(土)☁(-.-)

25℃/65%(除湿中)

 

起床時の気温と湿度は

25℃と86%。

今日はエアコンなしでいけるかな、

と思いきや、しばらくすると

べとべと感に耐えられず、

除湿フル稼働。

猫ちゃん専用の隙間をあけて

全サッシを閉じる。

 

とうとう、台風到来のようです。

よくみると、

沖縄をまるごと通過する模様。

ただ、瞬間風速35M程度の予報。

ちょっと、安堵す。

 

昨晩の風雨でおそれをなして、

ベランダの植物と小物を室内に避難。

猫ちゃんはものめずらしげに

ウロウロしている。

 

本日の安息日の礼拝。

台風上陸にはまだまにあいそう。

よかったです。

 

沖縄のコ●ナ感染者数は軒並みな数字。

いったい何?なのだろうと思うまもなく、外国の豪華客船が押し寄せるという。

 

匡は、「インバウンド」だよりにせず「内需」の拡大できる方向へと舵をむけてくださらないのかな。

 

日本は昔、鎖国をしていて、かつ、お江戸は百万都市だった。

 

今の世界は、まさに人のところへ土足で踏み込むのが常識になっている?

 

世界のこと経済のことまったくわからない私ですけど、今現在置かれているところとにかく生きていく。

 

今ある「私」が生きる、ということはイエスさまを見つめてひたすらに「道」を探りつつ歩むということ。

 

イエスさまと「軛」を共にして歩むことを学ぶこと。

 

イエスさまについてまだまだ知らないことばかりです。

 

イエスさまについて「知る」ことが一つまた一つと増えるたびに「喜び」もまた増えていきますから感謝です。この喜びと楽しみ以外今の私を支えているものはありません。


ハレルヤ

主イエスの御名を崇めて感謝いたします。

おねがい

 

外は今とても静かです。

まさに・・・

嵐の前の静けさ?

 

今日も一日、

イエスさまについてせいいっぱい考えさせていただけますように。御言葉を行って喜びのまたいや増しに増していきますようにと願います。