ヘブル書13章12節 (新共同訳)
それで、イエスもまた、
御自分の血で民を聖なる者とするために
門の外で苦難に遭われたのです。
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「門の外」
レビ記16:27
至聖所のための贖いの儀式を行うために、その血を携え入れられた贖罪の献げ物の雄牛と雄山羊は、宿営の外に運び出し、皮、肉、および 胃の中身を 焼却する。
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引用します。
※新実用聖書注解P1782※
その異なる教えによれば、
信仰生活は食物規定に示されるような一種の禁欲主義、自力救済主義に陥り、もはやキリストにある神の恵みにはよらない(コロ2:20-30)。
しかし 食物が救いと永遠の命にとって無効であることは、食物規定の根拠とされた旧約聖書自体がそれを明記している。
大贖罪日における幕屋の祭儀では、犠牲動物の血は大祭司により至聖所に注がれるが、その死体は幕の外で焼却され(レビ16:27)、他の場合と違って 食物に供されることはない。 そしてこれは、著者)によれば、幕屋祭儀奉仕者に象徴される(グノーシス的?)ユダヤ主義者がキリストの贖罪恩恵の祝福を享受しえない(10)ことの予型であった。
更に
犠牲動物の死体が宿営の外で焼却されることも、著者によれば、真の贖いの犠牲であるキリストが(旧約時代に神の臨在の場である神殿のあった)エルサレム郊外のゴルゴタの丘で死なれたことの予型であった (ヨハ19:17)。
(※ヨハネ19:17
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。)
自己の刑木を担ってエルサレムからゴルゴタに向かう歩みは、当時の常識的見方ではまさに敗北と恥辱に満ちたものであるが、しかしそれは実に究極的な勝利と栄光が約束された歩みであった (12:2、ルカ9:23,27)。
(※ヘブル12:2b
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。)
(※ルカ9:23~
それから、イエスは皆に言われた。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(23)
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(24)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(25)
わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。(26))
そしてこれは キリスト者の歩むべき道でもある。
なぜなら我々はこの地上の歩みにおいて <永遠の都>(14) を求めており(13,14)、更に神への<賛美のいけにえ>(15) の奉献及び相互の善行と祝福の享受によってそれを先取りしているからである。
それ故これを怠ることなく一層励行することが、今の時代の神の民にふさわしい自己奉献の生き方なのである (10:24-25、ロマ12:1、9以下)。
(アーメン)
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こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ書12:1)
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ハレルヤ
「門の外」の苦難。
「宿営の外」にある悲しみ。
その「恥辱」と「敗北」。
これら一切は すべて、
しかもすでに
主イエス・キリストが通ってくださった道。
「人」となった「神」、ということが
どういうことなのか。
「人」となってくださった「イエス」。
だから、
「人」であられた「イエス」
だからこそ、
わたしは、
その御許に
もたれかかり、なだれこんで
思いきり 倒れることができる、
のだ・・。
「わたしは、決してあなたから離れず、
決して、あなたを置き去りにはしない」
(ヘブル13:5)
ハレルヤ
感謝