出エジプト記4:18~20「神の杖」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

モーセ、エジプトに戻る(1)

18モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてくださいまだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。 「無事で行きなさい。」

 

19主はミディアンでモーセに言われた

さあ、エジプトに帰るがよいあなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」 

 

20モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。

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エジプトに帰る理由は

「親族の元気な様子を見たい」。

本来の目的など 言えるわけないですヨネ。

神さまとのいきさつも言えませんヨネ。

 

お互いに「天地創造の唯一の神」を拝しているとはいっても、モーセさんの神とエトロさんの神概念が一致するとは限りませんヨネ。

 

昨日の日めくりカレンダーにこうありました。

本当に默することができる者だけが

本当に行動することができる

(キルケゴール)

 

「能ある鷹は爪を隠す」ともいいますしネ?

(ちょっと違う?)

 

モーセを励ます神のおことば。

あなたの命を狙っていた者は皆

死んでしまった

 

人って、やっぱり長生きするものですネ。

(俗ですが・・)

 

良き事を聞き、見る幸いに与れる?

頑張って生きていれば「正義」を見聞きできる?

 

と、そんなこと思わされました。

(雑感)

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<clay>

モーセはイテロに対して、【主】の計画の全貌を語ってはいない。燃える柴についても、自分の使命についても、語っていない。これは、モーセの知恵であろう。神の幻は、いくら言葉で説明しても、そう簡単に分かってもらえるものではない

 

1 歩進むと、次のステップが見えて来る

 

パロも、パロの高官たちも、モーセが殺害したエジプト人の友人たちも、みな死んだこれは、モーセの心から恐れを取り除くためのましのことばである

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※BIBLEnavi71p※

--4:17-20--

モーセは、羊飼いの杖をしっかりと手に握りしめていた。 エジプトに向かうことは、人生において最も大きな挑戦に立ち向かうことだった。 杖は、神が共にいてくださり、神の大きな力が共にあるという確証だった。 不安を感じるとき、神が共におられることを確証する何らかのものを必要とする人もいる。 

 

大きな試練に立ち向かうときのための確証は、聖書に記された神のみことばと、信仰の勇士たちの物語であるクリスチャンは、この聖書を信仰の土台とする。 

 

信仰において成長するにつれて、一時的な安心ではなく、神のみことばのみに信頼できるようになる

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「神のみことばのみに信頼できる」境地。

信仰の成長。成熟。

 

どうしたらそんな「信仰」が持てるノカナ。

「みことば」を「聞いて行う」しかないのだと思えます。

「実践」しかないと思います。

 

この「行う」が なかなかできません。

 

先日、NHKのアーカイブで視聴しました。

比叡山の修行僧の実録。

一人の僧が、9日間の飲まず食わずの断食に入りました。

よく撮影できたものだなと思いました。

昭和54年の表示です。

日本がまだまだ成長しており、バブルに突入する寸前の時ですネ。

途中から見ましたので、この方の出家のいきさつがわかりません。

けれど、一日40k歩くのです。雪の山道をひたすら歩きます。

1000日ナントカ?ってありました。その後に、9日間断食です。

 

私も断食してみましたが、

飲んですら、3日目でそうとう苦しい思いをしました。

9日間となると「生死」に関わるのではないのかなと思いました。

 

かのガンジーさんの断食は有名です。

断食後の体力の回復も慎重をきします。

 

9日間の断食を終えて、他の僧たちに抱きかかえられるようにして出てきました。それを見守る信者さんたちも多数詰めかけており、婦人方には 泣いている人もいました。「生まれ変わった」という表現を用いています。なんとなく「身代り」というイメージも湧いてきました。世俗にいる信者の代わりとなって「苦行」を成し遂げてくれた一人の僧者への「涙」の数々。「自分」と「僧者」との置き換わり。一人の僧が代表して身に負った「苦行」を通して 俗世に生き、世俗で負わされているものからの解放を願い期待し、またそう信じている。そんな感じで受けとめました。上手く表現できませんが。皆、必死で「聖」なるものを求めて、「聖」なるものにすがりたい。そんな心情は 皆 抱えているのだな、と思えました。

 

本当の「救い」とは どのようなものなのか。

 

ただ、私の場合は、

「キリスト・イエス」にたどりついた。

それが真実であり真理だと信ずるがゆえに、排他性となって時に現れてしまうのは致し方ありません。この世のありさまを最後に正しく裁くのは 全能者のみであり、キリスト・イエスによることだと信じます。

 

皆「救い」を求めているのに、

なぜ、「道」が異なってしまうのだろう?

 

バベルの塔以来、

世界の混乱はやみませんネ。

(雑感)

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<clay>

私たちにとっての「神の杖」とは何であろうか。それは、「キリストの福音であり神のことばである聖書である

 

信仰を持った瞬間から、聖書は単なる本から「神の本」に変わる

 

何も持っていないかのように見えても、私たちはすべてを持っている。自分の手に与えられているものを正しく評価しようではないか。

イスラエルの神よ。私にも「神の杖」が与えられていることを感謝しますどうか私をあなたのみわざのために用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジプト記29 ~ 30、ヨハネの福音書12

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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2月10日(木)☁?☔?19℃

 

灰色の雲の向こうには少し

青い空間も広がっています。

こんなどっちつかずの天気

最近多いような気がします。

 

お天気予報では「積雪」注意。

「雪」には縁のないこの土地。

年中あたたかいのはありがたいと

ほんとそう思います。

ヘタすれば 同じ服で年中過ごせます。

 

水道管が凍る?なんてこともなく、

そういえば、花粉症もないのでは?

 

東京からもどってすぐに助かったのは

「花粉症」からの解放でした。

ほんと。

でも、今は

目がかゆくてしかたない症状。

 

問題は ほうっておいても

次から次へとやってきますネ。

 

以前、「キッチン」とかいう小説がありました。

読んではいませんが、

その「タイトル」に奥深いもの感じます。

 

「キッチン」に立つと、

「生活」の「基本」が見えて来るような

そんな気がするときがあるのです。

 

「食べる」こと。

神さまは、なぜ、人を

「食べる」ように造られたのかな。

 

私的にいえば、もう

「食べる」こといっさいから

解放されたいと思ったりもするけれど。

 

食べる、ために費やす時間って

バカにならない。

けれど、

「食べる」ことは楽しい。

 

スーパーに行くことは

今のところ 私の気晴らしに一つ。

 

かわりばえのない食材が

ただ 並んでいるだけですけどネ。

 

そこには、

生きるための数々が置かれているんですヨネ。

 

ハレルヤ

今日も一日

感謝を数えさせ給え。

おねがい