出エジプト記1:18~22「神の祝福を受ける生き方」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

男児殺害の命令(2)

18エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。

「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」 

 

19助産婦はファラオに答えた。

「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。 彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」 20神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。 民は数を増し、甚だ強くなった。 21助産婦たちは神を畏れていたので神は彼女たちにも子宝を恵まれた

 

モーセの生い立ち(1)

22ファラオは全国民に命じた。 

生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め女の子は皆、生かしておけ。」

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残酷な話しですネ。

女性にとってあまりにも悲しいことですネ。

女性の体は 乳飲み子のために変化しているはずです。

なんのための出産だったのか。虚しすぎます。

 

助産婦たちの「おこない」は

神の恵みを生じさせました。

 

神の御心に適うということは

神の恵みに与るということなんですネ。

 

「恵み」は

神に喜ばれた「結果」でもあるんですネ。

 

御心に適った生き方をしているならば

「恵み」は自ずとついてくるのですネ。

きっと。

 

「お恵みください」と祈るより先に

「主よ、御心を行わせてください」と

祈り求めるのが正しい順番かもしれませんネ。

(*^_^*)

(雑感)

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<clay>

神は、私たちが情報を正確に伝えるかどうかよりも、神に対して従順であるかどうかを問題にされる

「神に対して従順であるかどうか」

(アーメン)

私たちの今の生き方は、神の祝福を受けるものとなっているだろうか。もしそうでないなら、私たちもまた「束縛状態」にあり、「解放」を必要としている。

 

私たちに与えられている「キリストにある自由」について、黙想もくそうしてみよう。

「今の生き方」を問われれば、

私は まだまだ「束縛状態」であります。

悲しいかな。

 

そういえば、ふと思ったのでした。

その昔、私は信じた。

「復活」を信じた。

「イエス」は「神」と信じた。

そして「聖霊」を信じた。

信じると決めたとたんに 何もかもが軽くなった。

「信じる」ことが「スタート」だった。

 

キリストにある自由

 

ほんとうにそうだな、と思った。

 

「キリストにある自由」を

もっと真剣に

もっと黙想してみるのも いいのかもしれませんネ。

 

ここまできたらもう

「キリストにある自由」を謳歌したい!

とこそ 願う!

 

それしかない気がしてきました。

(-.-)・・。

 

すべては、

「信仰」と「希望」と「愛」。

 

この三つのみが 最後に残るもの。

 

感謝でした。

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天の父なる神さま。あなたは私のすべてをご存じですどうか私をあらゆる束縛から解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

創世記 47~48、マルコの福音書 16

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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1月24日(月) ☀のち☁
 

本日は 「ぬくい」日でした。

そして、なんだかジメジメしていました。

快適とはちょっとほど遠かったカナ。

 

明日は洗濯日和との予報。

さて、どうなるかなぁ。

 

今日から、耳読復活。

通読箇所をCDで聞き流し作戦デス。

 

ながら・・・作戦です。

 

手抜き「通読」で

なんとかついていこう、と

必死であります。

 

ただ、やはり 

集中力は続かないもので、

ときおり 話しが飛んでます。

💦

 

で、再生を繰り返す感じ。

 

なにはともあれ、

ついていければ幸いです。

 

ハレルヤおねがい

 

今日も一日

イエスさま ありがとうございました。