創世記22:1~2「試み」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

 

私たちの人生にも、神を信頼するかどうかのクライマックス的事件が起こる。その時、私たちがどのような対応をするかを、神は見ておられる。アブラハムが持っていた信仰を発揮する用意ができているかどうか、自己吟味をしようではないか。

 

 

 

 

(アーメン)

 

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どうだろうか。

「ひとり子」を献げよ、と言われ

なんのためらいもなく、

「はい」と答える者がいるだろうか。

 

もし「私」なら・・、

まず 聞いてしまうと思います。

「なぜ?」「どうして?」

 

そして、懇願すると思う。

「おゆるしください。勘弁ください。」と

請い願うにちがいないと思います。

 

それぞれに立場は違えど、

不妊の身でようやく授かった子ならばなおさら。

しかも、事故や災害ではなく、自らの手で「殺す」!のだ。

 

主は与え、主は奪う

主の御名はほめたたえられよ。」

(ヨブ1:21)

 

一瞬にしてすべてを失ったヨブの言葉。

 

わたしたちは、

神から幸福をいただいたのだから、

不幸もいただこうではないか。」

(ヨブ2:10)

 

ヨブさんとアブラハムさんを比較するのも

どうかとも思いますが、

 

”主与え、主取り給う”

の、その先にある「信仰」の持ちようが

若干違っているようにも思えました。

 

後者は、無から有を生じさせる神の力を信じた。

すなわち、イサクを生き返らせることができると信じて、神の命令に従おうとしたアブラハム。 「復活」の信仰の型を見るようです。

前者のヨブさんは、全能者の業に従順ながらも、「なぜ」の世界が広がります。「陰府」の影もちらつき始めるなか、「贖うもの」「弁護者」の存在を見出しつつありました。

 

信仰の勇者は数あれど、

アブラハムさんが「信仰の父」といわれるゆえんを垣間見る、そんな出来事がしっかりと記述されている創世記22章。ショッキングな出だしで始まります。 クリスチャンであれば 誰もが 「なぜ?」と 一度は思う場面のように思います。

 

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ハレルヤ イエスさま 感謝いたします。

アブラハムのような信仰には程遠い者。

されど、イエスさまの真実に出会わせてくださいました。

ありがとうございます。

救いの喜びが日々確信へと導かれ、日々新たにせられてまいりますように。

日々主の御名を崇めて感謝できますようにと願います。

 

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本日の通読箇所

・レビ記8~9章

・ヨハネ福音書19章

 

本日も配信ありがとうございました。

 

ハレルヤ

おねがい