ヘブル人への手紙
13章15節 (文語訳)
此の故に我らイエスによりて
常に讃美の供物を神に献ぐべし、
乃ち
その御名を頌むる口脣の果なり。
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昨日の土曜日の朝
在東京の姉妹から
いつものように電話がありました。
さて、2021年最初のお交わりです。
彼女から頂いた御言葉は
ヘブル書13章15節でした。
「讃美は祈り」
と ありますから感謝です。
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(文語訳聖書)
詩篇40:3
エホバはあたらしき歌をわが口にいれたまへり
此は われらの神にさゝぐる讃美なり
詩篇42:8
然はあれど
晝はエホバその憐憫をほどこしたまふ
夜はその歌われとともにあり
此うたは わがいのちの神にさゝぐる祈りなり
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いつものように
手もとの解説書など開きますと
あぁ、そうなんだ、と また
いまさらのごとく 知る思いです。
少し長いですが、
全文から一部抜粋して引用させて頂きました。
※クレイ聖書解説コレクション
「ヘブル人への手紙」P113-114※
13:9~17
「クリスチャンの宗教的責務(2)」
【宿営の外】
この手紙はユダヤ教に回帰しようとしていたユダヤ人信者たちに宛てられたものです。著者はこれまでにも、旧約時代と新約時代の違いについて、「律法の時代」と「恵みの時代」の違いについて書いてきました。 きょうの箇所で、再度そのテーマがまとめとして取り上げられています。
(1)キリストを信じる者には、「一つの祭壇」があります。これは、キリストの十字架という祭壇です。
(2)幕屋で仕える者たち、つまり、ユダヤ教を信奉する者たちには、十字架の恵みを味わう権利がありません。
(3)旧約時代、動物の血は聖所の中に運ばれましたが、死体は宿営の外で焼かれました。そして、神の小羊であるイエスもまた、宿営の外で苦しまれました。
「宿営の外」とは、ユダヤ教の外という意味です。
(4)ですから、キリストを信じる者たちは、キリストが受けたのと同じはずかしめを負って、宿営の外(ユダヤ教の外)に出て行くのです。それは、キリストのみもとに近づくことでもあります。
以上のことは、ユダヤ教に回帰しようとしていた人々に語られたことですが、その原則は私たちにも適用されます。
あなたにとって、「宿営の外」とはどういう状況でしょうか。
キリストに従うためには、あるものは犠牲にしなければなりません。しかし、それらのものは、それほど大切なもの、なくてはならないものなのでしょうか。
私たちクリスチャンは、「地上に永遠の都」を持つ者ではなく、後に来ようとしている都を求めている者です。
そのことを思い出しましょう。
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【神へのいけにえ】
(1)キリストを通して、父なる神に賛美のいけにえをささげるよう勧められています。しかも、「絶えず」それをするようにというのです。
あなたは、そうしていますか。
(2)善を行い、持ち物を人に分けることも、神へのいけにえとなります。神は隠れたところで行う私たちの善行を見ておられます。
(3)指導者たちの教えに耳を傾け、その人たちに服従することも、神へのいけにえとなります。指導者たちは、神の前に弁明をする者です。 責任は重大です。彼らが間違ったことを教えることのないように、見守るのもクリスチャンの責務です。
(アーメン)
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以前、Myブログに
「宿営の外」に関して記述した記憶があります。
(何と書いたのだろう?と過去の記事をチラホラ探してみますが、なかなかヒットしません(-_-;)。ちょっと断念。あとでじっくり検索してみます・・。過去記事の整理をもっとわかりやすく自己管理できたらなぁ、と考え始めました。忘れるもんですね、しっかりと・・。悟れないコツはここにアリ(~_~;))
ここには、明確に
「宿営の外」とは、ユダヤ教の外という意味です。
とあります。
