戦う「相手」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

久しぶりの つぶやき。

 

こんな日は、やはり、

愚痴でもこぼしたくなってしまう、カナ。

 

久しく忘れていた、ひどい頭痛で、目が覚めた。

激痛、といってよいもので、言葉が見当たらない。

 

今はおさまっていて

このようにブログを書けるのだから、感謝。

ちょっとでも気晴らしになるのです。

また思いを整理するツールにもなってくれて、感謝。

 

でも、とにかく、

何もかも「終わった」と思わせるこの具合の悪さ。

 

そこで、思う。

 

わたしが 今、戦うべき「相手」。

 

「敵」は身を潜めて、折をうかがっているようだ。

 

こんな時思うのは、

「あれが悪かったのか?」

「あのことをしなければよかった?」

「ああすればよかった?」

etc・・・、

自分の行いや思いを責めることばかり。

 

「応報」の原理の根は深い。

 

よく、「病」は気から」というけれど、

本当にそうあってほしいと、願うゎぁ。

 

だけど、

こんな声も聞こえてくるのです。

 

「感謝・・・・」

 

「感謝・・」

 

「感謝」

 

 

「命」をかけて「戦う」「相手」の登場に、

かえって わたしは 「命」を見ることができた。

時に、軽々しく扱ってきてしまったことも思い知った。

 

多分、敵は わたしを滅ぼし尽くすのだろう。

でも、いいのだ。

しょせん、人は死ぬ。

 

ただ、何もしないで、

「死」を待つのは ふさわしくないのだろう。

 

それで、時おり、思い出したように

「出来る事は何でもやろう!」 と

心に灯がともる感じもすれど、

果たして、

私の人生のバッグの中身は、

悲しいかな、見事に空っぽなようで、

なかなか良いヒントが見当たりません。

 

だから、まず、

「己」知って 「敵」を知る が良し、と

初心にもどる・・次第。

 

されど、

タイムリミットにあってしまったら、

残念だけれど、そこまで。ね。

 

最後の審判は 神のみぞ知る。

 

不思議にも、

 

「戦う」んだ!!

と思ってくると、

どこからか 「力」が湧いて来るような気がする。

 

コレモマタ・・変な話しで、妙なことのように思えます。

 

「戦い」のない次元。

そこは 真の「平和」が あるところ。

 

どうか、主に 拠り頼ませてくださいますように。

今日のこのつぶやきにも 憐れみくださいますように。

 

平和の君、イエスさまの到来を待ち望みます。

 

ハレルヤ