エレミヤ書17:5-8・・二種類の人間「呪われる人、祝福される人」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

※今日の御言葉※

2019年7月10日朝

 

エレミヤ書17:5-8 (新共同訳)

主はこう言われる。

 

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

その心が主を離れ去っている人は。

 

彼は荒地の裸の木。

恵みの雨を見ることなく

人の住めない不毛の地

炎暑の荒れ野を住まいとする。

 

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。

 

彼は水のほとりに植えられた木。

水路のほとりに根を張り

暑さが襲うのを見ることなく

その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく

実を結ぶことをやめない。

 

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BibleNavi解説P678/17:5-8より

ここでは二種類の人間が比べられている。

人間に信頼を置く者と、主に信頼を置く者である。

 

ユダの民は、神の代わりに偽物の神と軍事同盟に信頼を置いていたため、不毛の地となり、実を結ばなかった。

 

それと対照的に、主に信頼を置く者は、川岸に植えられた木のように繁る(詩篇1篇)

 

何か問題が起きたとき、人間に信頼している者たちは霊的に弱くなり、拠り頼む力もない。

 

しかし 主に信頼を置く者は、自分たちの必要だけでなく 他の人の必要まで満たす、あふれるほどの力がある

 

あなたは 実を結ばずに満足しているだろうか。

それとも、たっぷりと水を与えられた木のように、危機においても力があり、他人に分けてあげられるほど、主のために実を結ぶだろうか。

 

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久しぶりに

目覚めとともに 御言葉を頂いた気がする。

薄っすらとした頭に じわじわと 「言葉」が こみあげる。

 

ああ、これは、エレミヤ書!・・?

 

忘れないうちにと、聖書を開く。

 

与えられた御言葉は、

「人を頼みとするな、肉にたよるな」。

 

これは、おそらく、昨晩の影響。

突然の連絡が入った。

その内容は、私の動揺を誘うに充分だった。

 

「手放す」・・しかないのか。

 

私の存在意義すらも失くすかのごとき

一抹の寂しさを覚えたり、不安を覚えたり。

結局、それは もともと 「私の分」ではなかった、ということなのか。

そうであれば、もう、長いこと勝利できていなかった「奪われた」「取られた」という感覚から、そろそろ解放されなければいけない時期がきた、ということなのだろう。 「時」が来た、のだ。 ことさらに 争う必要もないのだろう。 「気持ち」を除いては 双方に良い解決の道が示された。

酸いもマズイも合わせ飲み、

不要に絡んでいるものから解きほぐされるが 最善の道なのだろう。

 

わたしは わたしの「分」を 見据えよう。

 

しかも、なおさらに、

「命」の日数が 目に見えてきた今、

ことさらに 何に執着しようか・・・・。

 

生活の不安・・・?

 

そう、・・・

「生活」のために 必死になってきたけれど、

いざ、金銭を意識せずに暮らせるような、

ようやく そんな

安定した「生活」というものに手が届いてみると

突然に 命の日数が決められた。

 

こんな ことってあるのかな・・・。

 

私の人生って、何だったのかな、と ふと思った。

 

あぁ、もっと「信仰」に生きることを学べていれば・・

あぁ、もっと「忍耐」することを覚えていれば・・・

あぁ、もっと「勤勉」に生活していれば・・・

あぁ、もっと「賢く」行動していれば・・・

あぁ、もっと 確かな「ビジョン」を見ることができていたならば・・・

あぁ、もっと この人生を楽しむことを覚えていれば・・・

どんな素敵な人生だったろう・・・etc

もっと、もっと・・・・。

 

でも、やはり、後悔の念も押し寄せるけれど、後悔のしようがない。

わたしは わたしの「分」を 生き抜いてきたのだ、と 思う。

そして、これからも、多分 「愚か」さと付き合いながら 私はわたしの「分」を 生き抜こうと思う。 せめて、今度は 「賢く」と願いたい。

 

これからでも、きっと、遅くない・・・。

 

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

その心が主を離れ去っている人は。

 

わたしは、守られてきたように思います。

わたしは、自分のパンを食べられています。

 

主の言われることは 確かです。

 

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。

主に従う人が捨てられ 子孫がパンを乞うのを。

(詩篇37:25)

 

勇気をもって 手放そう。

肉なるものを頼みとせずに。

 

ハレルヤ!