永遠の報いに関するクリスチャン指導者たちの言葉(抜粋) | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

「神からの報い」p149-p150より

ジョン・ウエスレー

以下の個所には、笑顔でゴールに到達した大勢の人の

ことと、彼らが厳しい戦いと華々しい勝利ののちに獲得し

さらに高次の栄光について書かれている。

黙示録14:1、15:2、19:1、20:4

もう一つの世には、想像もできないようなさまざまな段階

の報いがある。

 

どんな怠け者も、

「天国に行けさえすれば、それで満足だ!」と

言ってはならない。

 

そのような者は結局 天国に入り損なうかもしれない

世的なことにおいては、人はできるだけ高く昇ろうと野心

を燃やすものである。

クリスチャンには はるかに崇高な野心がある。

 

この世の一番高い地位と一番低い地位の違いは、

栄光の度合いの差のうちの一番小さいものと比べても

取るに足りない。

 

聖句引用個所(新共同訳)

黙示録14:1

”また、わたしが見ていると、見よ、

小羊がシオンの山に立っており、

小羊と共に 十四万四千人の者たちがいて、

その額には小羊の名とが記されていた。”

 

黙示録15:2

”わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。

更に、

獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。

彼らは 神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。”

 

黙示録19:1

”その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、

天でこう言うのを聞いた。

「ハレルヤ。

 救いと栄光と力は、わたしたちの神のもの。”

 

黙示録20:4

”わたしはまた、多くの座を見た。

その上には 座っている者たちがおり、

彼らには裁くことが許されていた。

わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、

首をはねられた者たちの魂を見た。

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、

額や手に獣の刻印を受けなかった

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間 統治した。”

 

☆.。.†:*・゜☆.。†.:*・゜.。.:*・゚+.。.:*・゚+.。.:*・゚+

 

 

どうであろう・・。

 

わたしは、”どんな者でも”・・・、

キリストを受け入れ、信仰を告白し、聖霊を受け、洗礼を受けるならば

”天国に行ける” と、信じていた。いや、そう信じています。

 

たしかに、怠けることは良くないのですが、

それでも、”信じて救われた”こと自体、不可思議な賜物です。

熱心に働ける人もいましょう。されど、悲しいかな、確信の差により

悩みのままの生涯をおくる人もいるのだと思います。

 

救いの門をくぐったけれど、その先の困難に圧倒されて なかなか

スッキリしない道を行きつ戻りつしている人。

(わたしもそうだ)

 

どんな怠け者も、

「天国に行けさえすれば、それで満足だ!」と

言ってはならない。

そのような者は結局 天国に入り損なうかもしれない

 

このようなことは、衝撃であります。

この言葉には、どのような深い意味があるのでしょう。

怠ける口実として 「天国に行けさえすれば、満足だ!」と言う

その心根がよくないのでありましょうか・・。

 

しかし、わたしも 時に 思うのであります。

「天国にさえいければ、幸いなのだ」と。

 

これは、現状打破できぬ者ゆえのもがきの言葉なのかもしれませぬ。

それでも、やはり、思います。

「天国に行けるのであれば、幸いだ。」

信じること、ただ、そのことのみによって、道は開けたのだから。と。

 

ハレルヤ