今日は、人間関係を円滑にするためのポイント、

を説明してから、

僕が下の記事で話したことをどう生かすかの考察を書こうかな、と思います。



人と人の関係において、

「ロール(=役割)」

というものが自然に発生します。

ちなみに「ロール」という言葉自体は、プロセスワークでの用語。



たとえば、

「先生」

「父親」

「先輩」

「友人」

などなど。



本当はこれは、「ある人」とイコールではないのだけれど、

一般的には、イコールとみなしがち。

これを「ロールが固定化する」という。

ロールが長い間固定化すると、人はストレスを感じやすい。



たとえば、

会社において「社長」というロールがある。

普通は社長が「社長」というロールをとっている。

多くの人にとっては、「社長」は、プライベートでも「社長」である。

でも、社長さんは、ずっと「社長」でいると疲れる。

ときには、「同僚」でありたいと願っているし、

他の人がリーダーシップをとるなかでの「部下」となりたい時もある。

それは、ほぼ絶対で、どの社長も同じだろう。

たぶん世の中に24時間365日ずっと「社長」でいたい人なんていない。



逆に、

人間関係のなかで、

その時の、ある人の「ロール」をはっきりさせないと、トラブルが起こることがある。

これはあくまで「一時的」なものではあるが、

たとえば学校において、先生は「先生」なのだとロールがはっきりしていないと、

学生から舐められることになる。

先生だって人なのだ。

だから、学生より優れていることなんてないし、阿呆なこともいっぱいする。力も弱い。

でも、「学校」の「ある教科の授業」においては、「先生」なのだ。

学生も、その時点では「学生」なのだ。

先生がどんなに人として愚かな人間であっても「先生」。

それ以外の時は、「先生」はただの人だ。



こういうことを、みんなが明確にしなければならない。

人間関係では、

ロールを強制的に押しつけたり(先生なんだからそんなはしたないことはするな、など)、

ロールを固定化したり(社長はそんなことしなくていいですよ!、とか)、

ロールをある人とある人の関係すべてに適用したり(あの人は「すごいビジネスマン」だから、あの人は私より優れている、とか)、

という誤解がいっぱい起こっている。



まあ、

そんなわけで、

フラットな関係

が好きな僕としては、

セミナーをするときは僕が「先生」ですが、

それは、いつもではありません。

でも、「自然に生きる方法」については僕が「先生」です。

他のことでは、僕があなたより優れていることはありません。

と明示しておけばあとで問題は生じにくい。



まあ、でも、そう明示していても、

勘違いは起こるから、

どうやってそれをわかってもらうか、

ってところがポイントなわけだ、な。



人は、

概念が、言葉になって、整理されていないと混乱する。

自然はそもそも混沌としているから。



自分はある人が「なにか」で優れているからといって「人」としては優れているとは思わない、

といっていても

多くの人は、

「あの『人』はスゴイ」

となんとなく思ってしまって、

苦悩したり、

「自分はダメなヤツだ」なんて蔑んだりしているものだ。



また、

「先生」や「社長」、「父親」に反感を覚え、

「あいつがオレよりスゴイ『人間』なワケがない!」

なんて、

せっかくのアドバイスや教えを受け入れなかったりする。

「ロール」にいる人には、「ロール」にいる役割と義務があるのだ。



「社長」は「責任」を背負い、指示を出し、物事を「決定」しなければならない。

「先生」は教えなければならない。

「父親」は子供が悪いことをしたら怒らなければならない。

でもそれは、その「人」がその全てを「したい」と思っているからではないんだね。




キマです。



最近、人生の新しい局面になっており、

新しいステップのために、自分を見つめ直している。

今日はそんななかでの気づきの一つ。



僕は「フラットな立場」な人間関係が好きだ。

上下関係のない関係。

もう少し正確にいうと、

固定化された上下関係のない関係。



今まで、たくさんの人に、

「セミナーをやってください。」

などといわれたが、

どうもセミナーが嫌いだ。



「先生」という立場がどうも好きではない。



私はあなたより人として偉いことなんてない。

だから「対等な立場の人」として、意見交換をしたいだけなのだ。

だから「教える」のが嫌い。

「先生」と呼ばれるのが嫌い。



もちろん人には、

知識や経験、人生経験の上下はある。

でも「人として」ではない。

わたしとあなたはいつも対等。

「人」として対等。

ときには「先生」や「弟子」にもなる。

でも、それは一時の話で、

「人」としては対等。



「伝える」のは好き。

自分が学んだこと、気づいたことを「伝える」のは好き。



人に教えてもらうのも好き。

自分が知らないこと。

自分ができていないこと。

あなたの人生、とか。



議論をするのが好き。

お互いが対等な立場で、どっちの「論」がより「真実か」「効果的か」などを話し合うのが好き。



自分のだらしのないところ、

みっともないところ、

うまくできないところ、

恥ずかしいところ、

おバカなところ、

全部包み隠さないで伝えたい。(わざわざ言うことはないけど)



さあ、こんな特性を生かして、

どんな仕事を生み出したらいいだろう。

どうやってお金を生み出せば良いだろうか。
最近、突然山のように成長する機会や気づきが訪れている。

そのなかで、気づいたこと。




私たちが成長するための強い動機となるものに、

『憧れ』

というものがあることに気づいた。




憧れた人、

憧れたモノ、

憧れた場所、


などなど。




でも、私たちは、

いつのまにか、

「そんなの無理なことだ。」


なんて、

どこかであきらめてしまっていたことに気づいた。




今となれば、「どんなことでも可能だ」と分かる。

この記事を読まれている読者も、

いくつかの自己啓発の本などを読んで、

もうそれを「知識」としては知っているだろう。




そう、あのときに、

「あの人と仲良くなるためには、自分はどういう人間になっていたらいいのだろう?」

とか

「あれを手に入れるためには、自分は何をしたらいいのだろう?」


と考えれば良かったのだ。




「憧れ」

という感じは、

正式な成りたちは知らないが、

「子供(=童)の心」

というカタチになっているから、

それが意味するところが良いものであるにしろ、悪いものであるにしろ、

「子供のときに心に想うこと」

であることは確かだろう。




それは、

私たちがまだ『現実』という思い込みで、

自分に「フタ」をしていなかったころに、

自然に溢れてきた想い。




論理的に説明できる「理由」があったわけではない。

ただ憧れた。

なぜか、身体の底から、震えた。

自分の奥にある『何か』が、震えていた。




この

『震え』

は、

わたしたちの内から自然に湧き出る力、

生命力、

わたしたちを動かす根源の力だった。




それは、今からでも遅くはない。

思い返してみよう。

ほら、まだ心のなかにくすぶっているでしょう?




そのくすぶりに、

もう一度、火をつけてみよう。

もう今は、何も知らなかった子供の頃のように、

「現実を見ろ」

なんて他人の意見を鵜呑みにする必要なんてない。

自分は、なんだってできるのだ。

もう知っているよね。




その魂の震えを、

その気持ちの高まりを、

しっかりと受け入れて、

そして今度はその実現のために努力するなら、

私たちにはなんだってできるんだ。




10年たてば全てはすっかり変わる。

あなたも私も、

どこにだっていける。

何にだってなれる。

だってほら、

あの有名人も10年前にはいなかった。

あの成功者もいなかったよ。

たった10年もあれば、いくらでも変われる。




もう一度、「あの頃」に帰って、『憧れ』を取り戻そう。

そして、それを「自分がどうなったら叶えられるか」を想像してみよう。




それが、奇しくも昨日の記事で書いていた、

『こんな風になりたいな~。』

なんて考えるだけでは、

どう叩いても、こねくり回しても、造り出せなかった、

『ヤル気』の泉

なんだな。