先日の、
「生産」という意識へのシフト、
について書いた記事で、
応援メッセージをいただいたので、
もう少し、このことについて書き進めてみます。
なぜ「生産なのか?」
について、
話を進めていきたいと思いますが、
実は、これについては、
まったくもって「論理的な証明」はありません。
というのは、
「生産が私たち生物が活性化するのに本質的に大事」
というのは、
「現象」がそうだからであって、
「理由」があるわけではないからです。
ようするに、
そうだからそう、
ということ。
たとえば、
「なぜ人は次から次へと産まれてくるのか?」
ということです。
「産まれてくる」
ということが「先」にあり、
それによって次から次へと「生み出されていく」です。
そこには論理的な理由なんてない。
これは私たちの体だってそう。
私たちの体は「動くこと」によってはじめて、
体が整い、
力が生まれます。
最近流行りのウォーキングですが、
これが健康に良い一番の理由は、
「動くから」なんです。
「動き」を「生み出していく」ことではじめて、
体が整体されていく。
酸素がどう、代謝がどう、というのは、
あくまで「部分を見てみれば・・・」という話なんです。
自然は、すべてこうなっている。
まず「何かを生み出していくこと」によって、
全体が振動し、
調和(というか全体性の運動なのです。)がもたらされる。
今、環境問題で「なんたら保護」っていっぱいありますが、
たぶんあれはうまくいかない。
それは「生み出して」ないから。
分かります?
「後ろ向き」は決してうまくいかない。
全体性が欠けてしまうから。
それだけが欠落してしまう。
なぜなら、全てはどんどんどんどん生み出されているからです。
とても複雑に、
とても微細に。
私たち生物にとって、
『選択肢』は「生み出すこと」しかありません。
「生み出すこと」が「活きること」に繋がっています。
これから僕は、
これをどうやって証明していくのか、
どうやって身近なレベルで利用できるようにしていけるのかの考えを、
進めていかなければなりません。
でも、もう方法はわかっているのです。
そう、まず「生み出す」ということにいつも焦点を合わせて、
そして「生み出していけばいい」ということ。
「生み出すこと」によって、
いつも何かがムクムクと、
姿を現してくるのですから。
それこそが僕がずっとテーマにしてきた、
自然と共に生きる
ということだったのです。
「生産」という意識へのシフト、
について書いた記事で、
応援メッセージをいただいたので、
もう少し、このことについて書き進めてみます。
なぜ「生産なのか?」
について、
話を進めていきたいと思いますが、
実は、これについては、
まったくもって「論理的な証明」はありません。
というのは、
「生産が私たち生物が活性化するのに本質的に大事」
というのは、
「現象」がそうだからであって、
「理由」があるわけではないからです。
ようするに、
そうだからそう、
ということ。
たとえば、
「なぜ人は次から次へと産まれてくるのか?」
ということです。
「産まれてくる」
ということが「先」にあり、
それによって次から次へと「生み出されていく」です。
そこには論理的な理由なんてない。
これは私たちの体だってそう。
私たちの体は「動くこと」によってはじめて、
体が整い、
力が生まれます。
最近流行りのウォーキングですが、
これが健康に良い一番の理由は、
「動くから」なんです。
「動き」を「生み出していく」ことではじめて、
体が整体されていく。
酸素がどう、代謝がどう、というのは、
あくまで「部分を見てみれば・・・」という話なんです。
自然は、すべてこうなっている。
まず「何かを生み出していくこと」によって、
全体が振動し、
調和(というか全体性の運動なのです。)がもたらされる。
今、環境問題で「なんたら保護」っていっぱいありますが、
たぶんあれはうまくいかない。
それは「生み出して」ないから。
分かります?
「後ろ向き」は決してうまくいかない。
全体性が欠けてしまうから。
それだけが欠落してしまう。
なぜなら、全てはどんどんどんどん生み出されているからです。
とても複雑に、
とても微細に。
私たち生物にとって、
『選択肢』は「生み出すこと」しかありません。
「生み出すこと」が「活きること」に繋がっています。
これから僕は、
これをどうやって証明していくのか、
どうやって身近なレベルで利用できるようにしていけるのかの考えを、
進めていかなければなりません。
でも、もう方法はわかっているのです。
そう、まず「生み出す」ということにいつも焦点を合わせて、
そして「生み出していけばいい」ということ。
「生み出すこと」によって、
いつも何かがムクムクと、
姿を現してくるのですから。
それこそが僕がずっとテーマにしてきた、
自然と共に生きる
ということだったのです。