前回の道の思想にコメントをいただいたので、回答をかねてこちらに書きます。

コメントは1000字までしか書けないそうで、書きたいことがかけません。



「道」は「頂上」を目指すものではありません。
なぜなら、それは他人と比較しているだけだから、当然苦しみます。
「道」は「うまくいく」ものではありません。
世の中を見渡してみても、「うまい道」なんてないでしょう?
そもそも道は「前」に伸びているだけで、どこへ向かうかは進んで見るまでわからないものです。

また「道」の中身は「空」です。
自分で探していくもの。創っていくものです。
だから「拘るもの」なんて「道」以外に何もない。

私が気づいた「道」は、あえて別の言葉でいえば「フレーム(枠」です。
枠の中身は何を入れてもいいし、自分でつくってもいい。
でも、フレームがあるから、そこに「絵」として存在できるのです。
フレームがなくなってしまえば、どこまでが「絵」なのかわからなくなってしまいます。
実際、現代美術で「フレーム」をなくしてしまった作品がありますが、結局それは「作品」としては無理があります。
(なぜなら状況が変われば、永遠と無限につながってしまうからです。)

「道」のなかで、「楽しいこと」をやっていくことは楽しいでしょう。
「茶」という「道」のなかで楽しいことをやればいい。
でも、もしここに「茶」という「道」がなかったら・・・?
ただ、楽しいことをやっているだけの人になっていきます。
もちろんどこにも結実しません。

続く・・・



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今日は、すごいことに気づいた!

大変なことに気づいてしまった!

これは僕の人生を180度、ひっくり返してしまう気づきだ・・・



以前に、真・善・美の話をしたときにもらったコメントで、

「道」は真・善・美の先にある、

と答えてしまった。

でも、違ったのだ。



道は、ただの道であった。

道のなかに真・善・美が見つかっていくのだ。



まあ、これは置いておいて、

今まで僕は、抽象的な概念の方が重要だと思っていた。

たとえば、「自然とは何か?」「人とは何か?」「人生とは何か?」「幸せとは何か?」・・・

でもそうこうしているうちに、非常に深い知恵は得たのだが、「器用貧乏」になってしまった。

ようするに、なんでもできるけど、微妙に「なにができるか?」といわれると何もできない。

そんな人になっていたのだ。

はい、たしかに何でもできるんですが、じゃあ、何ができるかといえば、何かスグにできることは少ないですね。



もちろん、抽象概念は非常に重要だ。

それが人生の価値を高め、深めるといっていいし、

人生の意味ともいっていい。

でも、それは「道」の「内側」にあった。

「道」が、抽象概念の「内側」にできてくのではなかった。



ようするにこういうことだ。

まず、やっていることは「具体」でなければいけない。

たとえば「ソバ打ち」でもいい。

「ビリヤード」でもいい。

まず、それがなければいけなかったのだった。



昔の日本人は、だからそれに「お茶」や「お花」という、極めて些細でありながら、

はっきりとした「具体」をしめしたのだ。

「具体」とは、誰がなんといっても、それはそれであることはみんな共通に認識できるものである。



「人間」といっても、「これがまさに人間!」という存在があるわけではない。

でも、「料理人」といえば、「これがまさに料理人!」という職業がある。

境界はもちろん曖昧だが、より具体である、と理解してくれれば良い。



だから、昔は生まれながらにして職業が決まっていたのだ。

そう、「外身」は実質問題ではない。

なぜなら、その内側には、どんなものであっても無限の抽象概念が広がるからだ。

ようするに、「針屋さん」でも「電球屋さん」であっても、そこに「真・善・美」は見つけられるからだ。

だからまず迷わないように「道」を決めた。

やるべき「具体」は前もって決めてしまったのだ。



実際、僕もずーーーーっと抽象的概念を追い続けてきて、

つまるところ、なんにでも使えるのだ。

じゃあ、いざ「畳屋さん」にならなければいけない状況になったとしても、僕は今まで勉強してきたことを使えるだろう。



しかし、僕は「畳屋」という「道」を通ってきたわけではないので、いざ「畳屋」になると、無駄なものもいっぱいある。

そうであれば、変な「迷い」もなかったのだ。



僕の間違いは、

というか、おそらく今の日本の社会の間違いは、

「道」を奪ってしまったこと。

自由に選べるようにしたことで、みんな選べなくなってしまったことだ。



どんなものでも、中身はある意味「空」だ。

だから、結局、選んでどの職業になったとしても、その職業自体になにかがあるわけではない。

だから、みんなヤル気を失ったり、やめてしまったりする。

イヤだ、ストレスだ、といい続け、苦しむのだ。

とはいえ、なかなか微妙に他の選択肢があるなかでは、

そのこと一筋でいく、という決断はできない。

コレが今の「モラトリアム社会」を生んでいる。



まず、「具体」を選ぼう。

そして、いろいろ勉強して、それをその「具体」つまり「道」のなかで、自分を深めていくのだ。



僕が以前に参加した、最近の世界の成功者がほとんど卒業しているというビジネススクールプログラムでは、

成功するためには、「まず何かのマスタリー(熟達者)になれ」と教えられる。

その時は意味がわからなかったが、

ようするに、ある一つの「具体」の「道」を極めよう、ということだったんだ。



これはようするに「一点突破」ということだ。

物理学的には力は、より小さな「一点」に集中すればするほど、仕事をするものだ。

これは自然の全体でも、人間の社会でも一緒だったんだな。



播磨陰陽師の尾畑さんもよくいっている。

「いろいろとやりすぎて意識が分散すると、ムダだから・・・」とか。

ああ、ようするにそういうことだったんだな。



もし、人生をなんとか一変させたい!と願うなら、

とにかく一つだけの「具体」を選択しよう。

そしてそこに人生をかけ、たくさんの抽象概念を学びながら、そこで「アウトプット」するのだ。

そうすることで、まさに「人生を切り開く」という表現があるように、

自分という「刀」の「刃」に力が集中し、人生が切り開かれていくのだ。



意味がイマイチつかめていない人もいるとおもうので、

例でいくと、

「あなたは何をやっているのですか?」

と聞かれたとき、

「私は○○です。」「私は○○をやっています。」と、

誰にでも誤解なく伝えられることをしよう、ということです。



あ、そうそう、

ここまで書いておいて悪いのですが、

一般的には、今書いていることは分からないかもしれない。

これは、なぜかすごいなんでもできるのに、どうももう一つブレイクスルーしない、いわゆる「器用貧乏」の人にしか当てはまらない「気づき」です。



すでに「私は○○です。」「私は○○をやっています。」といえる人は、

自分はすでに「道」にいるので、

その「道」の「外」にでることをしないで、

多くのことを学んで、その「道」のなかで表現してください。



そう、たぶん、これが、自然にそって、全ての人が幸せでいられる社会のあり方なんだ。

そしてそれこそが、世界で唯一日本が持っていた「道」という深い思想だったのだ・・・



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そういえば神話に、

「後ろを絶対に振り返ってはいえない」

なんていうものが時々見られます。

振り返ったが最後、「以前に戻る」「何も起こらなかった」どころではなく、「死」んでしまいますね。



これはまさに下で書いた法則を教えているんだろうな、と思うのです。

「やる!」と決めたなら、どんなに苦しくても後ろを振り返ってはいけない。

後ろを振り返るくらいなら、最初からやるな!


ってことです。



実際に、途中で振り返ってしまうと、

やっていることに一貫性がなくなり、以前に戻るどころか、崩壊していきます。



やっぱり神話は、深いですね。



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