「空海!感動の人生学」~ 大栗道榮 | こけ玉のブログ

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不惑の年などもうとうに過ぎたのに、いまだに自分の道も確立できていない。
そんな男の独り言。

これまで空海について描かれた小説を三冊紹介してきた。

寺林俊氏の「空海秘伝」では空海という人物の基本的な紹介が、
「空海秘伝」 ~ 寺林 峻 | こけ玉のブログ (ameblo.jp)


司馬遼太郎氏の「空海の風景」ではアクの強い空海の人物像が、
「空海の風景」~司馬遼太郎 | こけ玉のブログ (ameblo.jp)



陳舜臣氏の「曼荼羅の人」では唐に渡った空海が彼の地でどのようなことをしたのかが描かれていた。
「曼荼羅の人」~ 陳 舜臣 | こけ玉のブログ (ameblo.jp)


今回は空海をはじめとして、仏教が説く商売と人としての道を紹介してみたいと思う。



自分は本書を読むまで宗教と商売はあまり交わらないものだと思っていた。

しかし、本書はそれを単なる思い込みであることを教えてくれる。

一言でいえば、本来の人としての在り方こそが、商売の基本であると言ってくれているようである。

その内容は、どれもこれもが至極真っ当でありながら、自分の生き方と照らし合わせてみると、「言うは易し、行うは難し」で読み進めるほどに汗顔の至りとなる。

しかしまぁ、時折こうして振り返ってみることで、教えの万分の一でも身につけることができれば幸いである。



江戸時代、日本では士農工商との身分制度を作り、商人を一番身分の低い者とした。

学者の中には「商人は何も生み出すことをせず、物を右から左へと流すだけで金儲けをする」として軽蔑する向きもあったようである。

しかし、それよりはるか昔に空海は産業振興を推奨していた。

ただし、空海の推し進める事業や産業は単に金という利益を生み出すだけでなく、その事業・産業によって多くの人がご利益を享受できるものであったことだろう。

例えば満濃池などの灌漑事業などは大変有名である。

また、どこまでその伝説が確かなのか分からないが、灸、讃岐うどん、手捏ね寿司、九条ネギ、水銀鉱脈の発見、ダウジング、小倉あん、などは空海によって伝来されたとか、開発されたものとされている。

それらは単に利益を生むだけでなく、今現在も享受する人々にご利益を生んでいることだろう。



決して仏教では「儲けること」を悪とはしていない。

「儲け」の字を分解すると諸人と信者になるという。

諸人が望む、良きもの、良きサービスが提供されるのならば、諸人はその良きもの、良きサービスの信者となって生活を豊かにし、その商売人は儲けを生み出し生活を支え、それによって再び良きもの、良きサービスを提供し続けることができるという。

似たような言葉で近江商人が使う「三方良し」という言葉もある。

三方とは「売り手」「買い手」「世間」だそうだ。

その意味は売り手と買い手がともに満足し、さらに社会貢献もできるのがよい商売であるというものだ。

また、現在では「ウィン、ウィン」という言葉も使われている。

売り手と買い手、どちらか一方だけが利益を得るような商売ではいけないというのは今も昔も変わりないようである。



ちなみに、自分が「ウィン、ウィン」という言葉を覚えたのは、一時期「時代の寵児」と持て囃された○○エモンがよく使っていたからである。

しかし、昨今の彼の言動を見ていると、本当に「ウィン、ウィン」の精神で活動しているのか疑問である。

一定の人々を小ばかにするような言動を常に見ていると、相手への敬意があまり感じられないのは自分だけだろうか。

彼のように時代の趨勢を読み解く力があり、儲けることに長けている人が、菩薩行を基本とした商売をしてくれればもっと人徳を集め、素晴らしいことを成すような気がしてならず、とてももったいなく思う。



そう、大栗氏が語るには成功の核心は菩薩道にあるという。

商業であれ、工業であれ、どちらにおいても自分以外の人の利益を考えるという基本的な心の行がなければならない。

他人に利益を与えようとする心の行をすれば、自分に利益が返ってくる。

利他の心とは仏の心である。

仏心をおこしてすべての人々を救おうとすることが仏の行いである。

この仏の心で仏の行いをする人を菩薩という。

なので、商工業に従事するということは、仏の行い(すなわち菩薩行)をしていることになる、というのである。



もちろん、菩薩行を持ち出すまでもなくマーケティングの基本はニーズの把握であり、そういう意味では利他の精神にも通じるところもあるかもしれない。

しかし、「売れるものを作る」というのと、「他人の利益のために作る」というのは似て非なるものではないだろうか。

良い商品を生み出し、よく売れたとしても、従業員や下請けが苦しむような商売ではとても菩薩行をしているとはいえない。

以前紹介した「日本で一番大切にしたい会社」に登場してくる数々の会社こそ、菩薩行を地で行く会社であるように思う。

菩薩行とは単に買い手の利益だけでなく、作り手、つまり従業員の幸福も同時に追求する行であることは言うまでもない。



本書では仏教を語る際に出てくる諸々の用語と商売との関連性が述べられている。

「『四苦八苦』の本当の意味」

「人の心を動かい『八つの風』」

「あなたは『十二の因縁』に縛られている」

「人を毒する『三つの煩悩』とは何か」

「『八つの正しい道』とは何か」

「あなたが知っておきたい『十の戒め』」

等々。



その中で一つ紹介してみたいが、「『良縁』と『悪縁』を見つける目」というのがある。

「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦様が言う。

釈迦がいかに仏の道に引き入れてあげようと思って説法しても駄目な者がいるというのである。

その人にはまだお説教を聞く「機が熟していない」のだそうだ。

つまり、まだ縁がないのだという。



自分もつくづく商売とは縁だなあと思う。

さまざまな治療院を渡り歩き、症状が悪化し、ここが最後の治療院と決心して来院された患者さんが、たまたまうちの治療法と合って回復された方もいれば、せっかく来院されても「刺さない鍼」の治療と知ると、試しに受けてみることもせずに帰られる方もいる。

中には治療を受け、改善を自覚しながらも、第三者の「そんな治療が効くはずがない」との言葉に翻弄され、それ以降来なくなる方もいる。

基本的には自分に徳がなく、信頼を得ることができないからであろうが、その方とは縁がなかったものと考えるしかない。



また、売り手と買い手の関係性で言えば、日本ではよく「お客様は神様です」などという考え方があるが、最近ではその言葉を逆手にとって偉そうにふるまう客もいる。

そういう客こそ悪縁であり、客としてつなぎとめようとせず、悪縁として対処した方がいいだろう。

従業員の縁もまたしかりである。

縁故や肩書で採用しても、会社にとって不利益しか生まない人間であれば、それは悪縁であり、悪縁が良縁になることはまずあり得ないという。



たびたび引き合いに出して申し訳ないが、○○エモンが以前に餃子店でもめ事を起こしたことがあった。

同行のマネージャーがマスクをしていなかったために入店をお断りしたところ、「食べるときは外すだろ」などのクレ-ムをつけたのである。

そして後にその店が特定できるような形でSNSを使って非難したものだから、○○エモン信者たちがこぞってその店にクレームの電話攻撃などをし、店は閉店に追い込まれたというものである。

その餃子店にとっては○○エモンはまさに悪縁であった。

もし、餃子店がもめ事を避けようとか、相手は有名人の○○エモンだから言うことを聞こうとしていたら、今度は他の客から「人を見て対応を変えるのか」などのクレームが出て、店の信用度はがた落ちになっていたことだろう。



しかし、一度は信者らによって閉店に追い込まれ、奥さんも精神的にかなり参った状態に追い込まれたそうだが、世間の大多数は餃子店に同情的であり、別のSNS上の有名人からの助けの手によって別な形での商売再開が可能となったようである。

それは餃子店の店主による悪縁をきっぱり断るという姿勢が世の支持を得たということであろうし、図らずも別の良縁を得て商売を続けることができたということである。

このように、様々な仏教の教え、考え方を商売に落とし込んでみると、菩薩行が商売の成功の核心であるというのが実感できるようである。

本書では何も経営者の立場だけでなく、サラリーマンや会社でリーダー的な役割を担う人など、仕事全般にもいろいろと通じる事例や考え方が紹介されている。

また、直接商売とは関係ないが、暦の見方とか、葬式関連のこととか、暮らしの中の仏事のあれこれなども最後に紹介されているので、案外知らずに過ごしてきた事柄を知ることができる一冊となっている。

興味のある方はGWの休みの間にでも一読されてみてはいかがだろうか。

休み明けの仕事に向かう気持ちが変わるかもしれない。