体罰考(7) 人格とはなにか?
教育の話をするときには、「人格」というものがなにかを避けることはできません。
教育基本法第一条 [教育の目的]
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
「人格の完成」=「真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた」とダブって書かれていると解釈できます。
また、人格の基本的な条件として、次のことが上げられる場合もあります。
1)自分と他人の関係が良くわかっていること、
2)暖かい人間関係を持てること、
3)厳しく不運な状況になっても心の平静を失わないこと、
4)真理を理解できる理解力のあること、
5)人生に対する深い洞察力
ところが、人格とか自我というような言葉は、もともとヨーロッパから明治の初めにもたらされたもので、キリスト教の神と密接な関係にあります。だから、日本人にとっては「人格」といってもなにかピンと来ません。
むしろ「自我」があるのでは無く「無我」の方がなじみ深いことや、「人格」というと「動物格はあるの?」と聞きたくなります。日本は東洋文化圏にあり、キリスト教より仏教の影響が強いので、キリスト教社会の自我、愛、正義の代わりに、無我、慈悲、誠・恩という考え方が中心です。
そこで、ヨーロッパの思想をもとにして作られている教育の目的を日本的に書くと次のようになるでしょう。
「教育は,立派な人物になることをめざし,平和な国家とその社会の一員として,真理と礼節や恩を大切にし,他の人と調和し,自ら働き、誠実で,付和雷同しない強い心をもった心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
となるでしょう。
ここで「立派な人物」=「真理と礼節や恩を大切にし,他の人と調和し,自ら働き、誠実で,付和雷同しない強い心をもった人」ということになって、かなりわかりやすくなったと思います。
おおよその問題は把握できたような気がします。現在の教育の混乱の一つに、教育基本法で定められた教育の目的が考えられていないこと、それに加えて教育の目的自体がヨーロッパ流になっていて、日本人がわかりにくいということもあります。
簡単に言えば先生も国民も、もちろん教育委員会や文科省も真剣に教育の目的を考え、それを合意する手続きをしていない、だから人格とは何なのか、正義とは何かがわからずに進んでいる、それで体罰とか教育の仕方を議論しても、なかなか改善されないことがわかりました。
(平成25年1月17日)
--------ここから音声内容--------
人格とは何かと。まあ、これはですね、読者からのご質問もありましたし、また、教育を論じる上ではどうしても避けて通れない問題であります。今度の体罰事件もですね、人格とはなにかという事を抜きにして、議論は出来ないわけであります。
教育法第一条、教育の目的にはですね、たびたびこれを出してるんですが、まあ、これは旧条文ですけれど・・・。
「教育は人格の完成を目指し、平和的な国家、社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主席精神に満ちた、心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」
と、これを読みますとすぐわかるような気がするんですよね。
人格とは何か、人格の完成とは何か。と、聞かれますとですね。それは後ろの文章にあります。
つまり、「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた人。」これが人格のある人であると。というふうにだぶって書かれている。つまり人格の完成を目指して、こういうことをやるんだと。最初に人格の完成を目指すっていうのはまあ、目的中の目的ですね。その下は、まあ手段みたいなことが書いてあるというふうに言えるわけですね。
それから、人格という言葉はもともとヨーロッパから来た言葉で、それを日本人が明治に訳したものでありますので、一応ヨーロッパ流の人格っていうのはどういうことかっていうのを示してみますとね。
「自分と他人の関係がよくわかる事。」
「あたたかい人間関係をもてる事。」
「厳しくて不運な状況になっても、心の平静を失わない事。」
まあ、悲惨になったらもう、泣き叫ぶっていうんじゃなくてですね、これも仕方が無いとおもって受け止めるだけの、ちからっていうんですね。
「真理を理解する。理解力を持つ事。」
なにが真理か。それは人生とはどういうものかっていうことへの深い洞察力。こういうものが人格であると、ヨーロッパで言われておりまして、人格をもった人はどういう人なのかという時に、こういう説明が一般的にされます。もちろん人によって少し違いますけどね、だいたいそうであります。
ところがここでわかるように、人格という言葉ですね、これは自我とも、ま、自分ということですね。こういった用語はもともとヨーロッパから明治の初めに日本にもたらされたものでありまして、キリスト教の神様の概念とかなり密接に関係しております。このことが、日本人にとって、人格という事がおぼろげにはわかるんですが、カチッとわからない。(なので、)人に人格とはなんですかときかれても答えにくいということになるわけですね。
日本の人格に対する、(日本ではどう表現しているか)の言葉っていうのはなかなか難しいんですが、少なくとも、自我ということについては無我というのがあるんですね。これはあの、東洋流っていったらいろいろ問題があるんですが、まあそういうことですね。
それから、自然と人間をあまり区別しませんので、人格があるんだったら、動物格っていうのあるの?って感じになるんですね。あの、ヨーロッパではですね、おもに動物は野獣と考えられるわけですね。だから教育を受けないと野獣と同じような、野蛮な状態にあるのを、教育によって人にするんだと。
ところが日本ではですね、人よりか動物の方が偉い。(と思っていたりします。)私なんかはそう思ってるんですね。オオカミなんか見ますとね、実に偉いんですよ。一夫一妻で夫婦は絶対に離婚しませんしね。それから兄弟で不幸な兄弟は、自分の夫婦の家庭にいれてあげますしね。(可哀想な環境にある)子どもの両親が死んだら、その子どもを引き取りますしね。無償ですよもちろん。お金、貯金、ありませんからね。
実に立派でですね、どう見ても、人間よりかオオカミのほうが偉い様に思うんで、いわゆるキリスト教的な文化、ヨーロッパ的な文化の様に野獣と人間というように日本の文化は見てないわけですね。輪廻転生があるくらいで、あなたまえのあれは(前世)「鹿だったの?」「熊だったの?」って聞かれるぐらいですからね。
まあ、ここで一応東洋文化圏と西洋文化圏と区別をしまして、それではちょっとまずいこともあるんですね。その他にアフリカにも文化はありますし、いろいろ文化はあるんですが、わかりやすく一応ここではこう言っております。
そうしますとね、キリスト教的な文化の自我、愛、正義といったですね、非常に基本的なあれ(概念)がありますね。自分。愛が大切だ。キリスト教ね。正義。ジャスティス。とまあこうなるわけですから・・・。
これに対して仏教的と言いますとね、自我に対して無我、愛に対して慈悲、正義の代わりにですね。あの、正義って言うのは一応、神が居れば正義って言うのはあることはあるんですが、一応日本では、誠とか恩とかという考え方が中心ですね。ヨーロッパには恩というものがもともとありません。
で、そうしますとねヨーロッパの思想をもとにして、書かれている教育の目的ですね。ま、うっかり書いちゃったんですね。ていうのは、日本の偉い人はみんなヨーロッパの教育を受けてますから、日本の道徳の教育ってあまり受けてないんでですね。ついついこう言う文章になっちゃうわけですが、これをちょっと試みで日本風に書いてみますとね、こんなことになりますね。
「教育は立派な人物になる事を目指し、平和な国家とその社会の一員として、真理や礼節や恩を大切にし、他の人と調和し、自ら働き、誠実である付和雷同しない、心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
とまあなるわけですね。
つまり、立派な人物というのは、真理と礼節、礼儀や節度を守り恩を大切にする人で、えー十七条憲法じゃないけども、和をもって尊しとし、自ら働き、これ、自ら働きって当然かと思いますけども、ギリシャ文化なんかは働く事は下賎な事だという風に言われてますからね。(戻りまして)誠実であり、そして自主的精神っていうのはちょっとやっぱりヨーロッパ的ですね、日本流で言えばおそらく付和雷同しない強い心をもった人と、まあ、こういう風になると思いますね。
私はけっこうわかりやすくなったかなと、いうふうに思うんですけどね。例えば人格の完成を目指すと言われると、なにやんの?感じなんですけど、立派な人物になることを目指しって言いますとですね。ああ、立派な人物かと。まあ、立派な人物っていうのはいろいろありますけども、だけども、少なくとも立派な人物にしようじゃないかと。
立派な人物は読み書きそろばん出来るでしょうしね。そしていろいろ聞いても知識があるでしょうし。それから恩もあり、稲穂の様に頭も垂れて謙虚で、そして働き者で誠実であると。そして他の人が言ったからってすぐ付和雷同せず、強い心をもった人。とこう言う感じがしますからね。
ま、これはわかりやすいかなと思いますね。だからまあ、教育基本法をですね、もうひとつ考えて、日本人の心理に合わせて書くとですね、先生方もかなり分かりやすくなるんじゃないかと思いますね。
つまり、こういった問題を考えますとね、現在の教育の混乱の一つは、まず教育基本法で定められた教育の目的を誰も議論しないということですね。
この大阪の事件が起こっても、教育って一体何の為にするのかとか、全く質問がないってことですね。
それからもう一つは、ここでわかったのは、教育の目的自体がヨーローッパ流になっていて、日本人がわかりにくいわけです。これ、わかりにくいっていうことは非常に重要で、重要っていうか良くないことで、やっぱりこう教育の様に、(教育の目的を議論する時は)先生も参加する、ご父兄も参加する、そして子どもも参加するっていう、自分たちがこれから何をしようとしてるの?っていうことが日本人が分かりやすくなってなければいけないっていうことですね。
ということはですね、私、人格についてっていう事を書くあいだにいろいろ考えたんですが・・・。簡単に言いますとですね、「先生も国民も、教育委員会も文部省も当然なんですが、真剣に何の為に教育するのかということを考えていなかった」と。
それからそれを合意する手続きですね、これ手続きが必要ですね。人格とはなんなのか?正義とはなんなのか?これをわからずに進んでいた。だから体罰とか、教育の仕方が混乱し、例えばゆとりの教育とはなんなのかとか、わからないと。いうような事になったと。
だから今度のですね、事件についてはですね、私ちょっともう一つ言いたい事がありますので、後に書きますけども、えーと、事件を起こした当の先生のはなしと、教育をどうするのかっていうのを分けなきゃいけないんですけどね、これがなかなか日本人っていうのはこういうところわけないんですね。そういった問題があります。
ここでよくわかったのはですね、我々はやっぱり明治の時に非常にヨーロッパの文明を受け入れて、まあ、とにかくいろんな言葉を福沢諭吉を始めとして作って、そして哲学をやったり、ヨーロッパの文化を導入したのはよかったけれど、150年経ちますからね、やっぱりヨーロッパの文化と、日本の本来の文化っていうのが融合して、文章もやっぱり変えた方がいいんでしょうね。
まあ、この為には大学の上の方の人とか、そういう人がやっぱりヨーロッパの文化に染まってますからね。これをどうするか。東洋の・・・、日本というものを、まあ、これ無理やり強調する必要は無いんですけど、当然の様に強調しないとですね、やっぱりこの問題の様に人格の完成を目指しというのか、立派な人物になるという事を目指すのか。
ここら辺の書き方とか、まあ、みんなのイメージですね。イメージとしてどういうイメージを持つのかということを議論する必要があると私は思いました。
(文字起こし by まさんちゅ)