主催者発表と警察発表だけを報じるマスコミ (7/29)
最近、反原発の大きなデモが2回あった。最初のデモでは、主催者発表15万人、警察発表1万7000人となっていた記憶がある。2回目が主催者17万人、警察5万人だったと思う.少し数字が違っているかも知れないが、おおよそこのぐらいだったし、多くの人が主催者発表と警察発表が大きく異なることを知っている.
マスコミによっては、原発事故を軽く見ようというところは警察発表を、原発事故を積極的に報道しようとするところは主催者発表を採用する傾向がある。
もちろん、両方ともある程度の根拠があると思うが、これでは報道にならない。報道するからには記者は「自分の目」でみた数字を出さなければならない。そうすると「責任」があるので報道しないのだが、もともと報道とはなにを報道してもその内容には責任がある。
戦争の時には「大本営発表」というのがあった。事実と違うからと批判を受けたが、戦争中だから戦っている方にはいろいろな事情がある。でももし「報道の自由」があれば、大本営発表がどうであれ、取材によって正しいと考えられる結果を報道するのが筋だ。
戦争中は報道の自由がなかった。でも今はあるのだから、マスコミは「主催者発表」、「警察発表」を止めて、「取材で確認した人数」を明らかにしなければならない。当然のことだ。取材をして当事者の言い分だけを報道しても意味が無い。
・・・・・・・・・
今から5年ほど前のことだが、その頃、ペットボトルはリサイクルされているのか?が問題になっていた。この問題は、
1)一般市民はペットボトルがリサイクルされていると思いたい、
2)マスコミはペットボトルがリサイクルされているように報道した手前、リサイクルされていないことを報道できない、
3)業者は補助金をしこたまもらっているのでリサイクルするといって引き取るのを止められない、
4)官僚は「焼却してもリサイクル」という法律を作り放り出しているし、自治体は現実には焼却していることがバレると困る、
という状態から生まれていた.
あるテレビ局が大学に来られて、私にインタビューした。ペットボトルがリサイクルされているかについてのコメントを求めたのだ。私は自分の考えを述べた後、「これから何を取材されるのですか?」とお聞きすると、「リサイクル派の方に聞きに行く」と言われたので、「むしろ、テレビ局自体でリサイクルされているかどうか、取材をされたらどうでしょうか?」と言った.
最近、マスコミの報道も経費節減で現地取材などなかなかできない。かつてはマスコミの記者が足を使って歩き回り、「真実」を求めたものだが、今では誰かに面会して取材するか、それなら良い方で旅費がないからと電話取材も増えてきた.
マスコミの記者ばかりではない.私たちの分野、つまり学問の分野でも「人のデータ」を加工するだけの場合が多い.数年前、東京の一流大学の大学院修士論文の審査のご依頼を受けたことがある。もちろん、修士や博士の審査は他大学の先生が入った方が良いので快く引きうけ得た.
その後、審査対象の修士論文が届いてビックリしたのは、そこで採用されているデータはすべて「官報、白書、公的報告書」なのだ。確かに公的データを使えば、データの出所について非難を受けにくい.私の著書が批判を受ける一つの原因が「権威のないところのデータを使う」ということによっている。そんなことで学生が大学院を修了できないのも可哀想なので先生としては公的データを使わせたのかも知れない。
私は「お引き受けして申し訳ないが、審査もできません」と理由を付してお断りした.哲学などを別にすると学問はデータが勝負である.そのデータが官庁のデータではどうにもならない。官庁のデータは事実より政治的配慮が優先しているから、そこから導き出される結論は間違っている可能性が高い.
・・・・・・・・・
日本に民主主義が誕生してから歴史も浅いし、もともと血を流して獲得したという経験も少ない。日本国憲法にあるように民主的国家を作るには利権や権力と戦い続けなければならない。人間はまだ野蛮なのだ。
(平成24年7月29日)
--------ここから音声内容--------
しばらく日本ではデモというのがなかったんですが、最近反原発のデモがあるようになりましてですね、最初の確か大きなデモが主催者15万、警察1万7千ってものすごく開いてたような気がするんですが、二回目が主催者17警察5万人だったと思うんですね。ちょっと私の記憶の数字が違うかもしれませんが、いずれにしても非常に大きく違っているということはもう皆さん知っていて、「あぁ、主催者17か、警察5だなぁ」と。「なんでかねぇ」なんてよく話になるわけですね。
マスコミによってはですね、原発事故を軽く見ようという思想のところは警察発表を使う、原発事故を積極的に報道しようとするとこは主催者発表を使うっていうですね、なんだか事実なのか意見なのかわからないような報道があるわけですね。しかしこれでは全然報道と言えないと思いますよ。報道っていうのはですね、その記者が自分の目で見た数字を書くわけです、ええ。「そうしたら責任が出るじゃないか」って…元々ですね、報道っつぅのは何を報道したった責任あるんですよ。それはですね報道ですから。
昔戦争中に大本営発表ってのがあったわけですね。(被害を)少なめに放送する。これは非常に事実と違うってことで批判を受けたんですが、これは戦争中の当事者ですからね、やっぱりあんまり負けてるってことを言いたくないかもしれないんですよ。で、その時報道の自由があれば、大本営発表でいくら発表したってしょうがないんですよね。取材して発表しなきゃいけないわけです。
ただ戦争中は報道の自由が制限されてますから仕方がないんですが、今は報道の自由があるんですよ。報道の自由があるのにマスコミが主催者発表、警察発表だけ言ってですね、自分で取材したら何名だったのかと言わないってのは、もうまったくビックリしちゃうですね。だって、ヘリコプターなんか飛ばして上からの写真があるんですよ。それだったら写真を何枚か撮ったらですね、すぐわかるわけですよ、数えたら。おそらくですね、この頃のマスコミったらもうマスコミじゃないんですね。取材で確認した人数を言えば、どっちからか文句…(音声が飛んでいました)
だけどですね、マスコミはそんな報道ははねのけたらいいんですよ。「ちゃんと私たちで確認しました」って言えばいいんですからね。「写真が撮ってありますから、なんだったら数えてみますか?」って言うぐらいの強気でやらないとですね。だってマスコミはなんのためにあるかったら、それを読む人、もしくはテレビを見る人が事実を知るためにマスコミの報道が存在するんですからね。マスコミが責任逃れしてですね、当事者発表と警察発表だけを発表してんじゃですね、これはもうマスコミじゃないですね。つまり自分で取材しないっていうことですから。もしくは自分で取材した結果には自信がないっていうんですからね。これはもう相当なもんですね。
実は今から五年ぐらい前に、そのころペットボトルのリサイクルをどうのこうのっていうのがあったわけですよ。で、実際どういう状況だったかっていうと、一般市民はペットボトルはリサイクルしてほしいと思ってたんですね。マスコミはですね、一回ペットボトルはリサイクルされてるように報道しちゃったんで、いまさらリサイクルされてないってこと報道できない。業者は補助金をしこたまもらってるので、リサイクルすると言って引き取らざるを得ない。官僚は「焼却してもリサイクル」って変な法律を作った。自治体は現実には焼却してることがバレたら困るというですね、非常にひずんだ状態でテレビが私の大学に来たわけです。
私は自分の考えを述べましたけどですね、その時に「これから何を取材されるんですか」とお聞きしましたら、「リサイクルの推進派のほうに聞きに行く」と言われたんで、私がですね「いやむしろテレビ局がですね、リサイクルされているかどうか取材をされたらどうでしょうか」と言ったんですよ。私ね、最近マスコミにももちろんね、同情する余地あるんですよ。なにしろ経費節減で現地取材できないんですね。ほんとはマスコミの記者が足を使って歩き回ってほんとのことを求めるわけですよね。ところがそれはお金かかるんで、面会して取材していただけるのならもっといいんですが、電話の取材も結構多いんですよ。
私の例でね、別にこれ恨みも何もありませんが、私が「一関が汚染されたから気をつけた方がいいですよ」とテレビで言った時は、私に一回も取材せずに記事を出したところがいっぱいあるんですね。もう取材もめんどくさい、とにかく「伝聞」で書いちゃおうってわけでしょ。中には私がテレビで話したことを聞いてもないで、「テレビで武田はこう言ったらしい」っていう新聞まであったんですよ。まったくもうね…あれ関西のテレビでしたからね、見られない人がいたんですね。まぁなんというか、これでマスコミなのかと思いますが、いや実はこれマスコミだけを非難できません。
私の分野…学問の分野でも同じなんですね。数年前ですね、東京の一流大学…私立大学ですが、それの大学院の修士論文の審査をご依頼されてきました。もちろん修士とか博士の審査ってのはですね、他の大学の先生が積極的に受けなきゃいけないんで、快く引き受けました。ところがですね、その修士論文送ってこられてびっくりしたんですけど、そこに使っているデータがですね、官報、それから白書、公的報告書だけなんですよ。
論文が割合と少ない領域ではあるんですけどね、全部官庁なんですよ。いやぁそれはね、どうしてかって言いますとね、学問の世界ですらですよ、権威のない所から引くとね、文句言われることあるんですよ。そのデータが真実かどうかっていうことで文句言ってくるんじゃないんですよ、ええ。「通産省が出したのか」とかね、そういうことを聞いてくるんですよ。「査読ありの論文か」とかね。よくそういう話があるんですよ。
もちろんね、経産省のデータはそれなりの信頼性がありますし、査読付きの論文も査読付き論文なりの信頼性はあるんですよ。だけども信頼性ってのはそういうので決まってんじゃないんですね、ええ。「学問的に正しいプロセスでデータを得たか」ってことなんですよ。で、私はですね、「いったんお引き受けしてまことに申し訳ないけど、ちょっと審査ができません」と言って、若干の理由を付してお断りしました。
哲学とかそういう一部の分野は別ですが、ほかの分野…特に私の分野ではデータが勝負なんですよ。このデータは官庁のデータではだめなんですよね。官庁のデータっつぅのは事実よりも政治的配慮を優先してますからね。だから、そっからどんな結論を導き出しても、それは間違ってる可能性が高いわけですね。やっぱり自分の足で…とかですね、現実を見てとかいうのはどうしても要るんですね。もしそういうことをしなければ、例えば官報とか白書だけに拠るんであれば、「役所はどういうような報告をするものだ」という研究なら成り立つんですよ。だけど、事実を解明する研究は成り立ちません。
私はですね、この今度の警察なんぼ、主催者発表17万というのを見てですね、どこ見ても「私の目で見たら何万」というのを書かない記者、これはね、新聞記者じゃありませんね。それからテレビももちろんそうですよ。それから後は我々の分野でも自己反省しますとですね、本当に最近「自分で調べた値」ってのがないんですね。リサイクルでも私それで散々叩かれたんですよ。「武田の勝手なデータ」って書いてあるんですよ。だけど、私のデータ以外に「どのくらいリサイクルしてるか」っていうデータないんですからね。後全部官庁(のデータ)なんですから。
だからどうしても官が発表している「60%リサイクル」っていうのが、自分で調べてみたら2~3%だったっていうだけなんですよ。そしたらね、「いいかげんなデータ」って言うんですよ。「そのいい加減ってのはなんですか?」って聞いたらね、「武田が個人でやったから」って言うんですよ。いやだって、学問ったら個人以外ないんですよ。団体の学問なんてありませんからね。
だけどもまぁ、これは一般的、社会的な傾向なんですね。もうそういうことだけケチをつける。で、ケチをつけられたっていいんですよ。正々堂々「私の目で見たら、デモは12万5千人でした。私、写真でもちゃんとカウントしました」とかね、それから「200mの列を計算したらなんぼで、何人で、全体に何kmだったから、これは何人と計算しました」とちゃんと言えばいいんですから、別段、ええ。それはおかしいと(音声不明瞭)言えばいい…(音声不明瞭)、だって誰かが書かなきゃいけないんですから、誰かがデータ出さなきゃいけないんですからね。
まあこれは日本に民主主義が誕生してから歴史が浅いっていうことと、元々血を流して民主主義を獲得したっていう経験が少ないってこともあるんですが、日本国憲法にもあるようにですね、民主的国家を作るためには利権や権力と毎日のように戦い続けなきゃいけない…とこう書いてありますね。私はですね、利権だとか権力を傘に立てて、また「お前のデータは個人じゃないか」っていうような社会ですね、これやっぱりね野蛮なんですよ、人間が、ええ。人が信用ができないっていう状態ですね。
人間がもし本当に自分の人生のことを考え、学問に忠実であればですね、こういう議論はなくなるんですね。ぜひ、日本の報道も、そして私の所属している学問も、形式的なとこじゃなくてほんとに真実を知りたいと、こういう要求に我々は答えるべきだと、そういうふうに思います。