時事寸評 三つの聖職と社会の選択 (7/12)
この世には三つの聖職がある。それぞれ「命を奪って良い人」、「体を傷つけて良い人」、そして「魂に手を触れる人」である。それぞれの職業の名前は「裁判官、医師、教師」である。
これらの人たちが本来なら人間にできないことをしなければならないのは、社会に犯罪人、病人、子供がいるからに他ならない。
しかし、これほどのことをするのだから、それに携わる人に求められる条件が二つある。それは第一条件と第二条件に別れているが、第一条件は「プロの倫理を守ることができる人」で、
1)普遍的法則に従う(職業上の命令者を持つ)、
2)長期間高度な鍛錬をする、
3)不特定多数に忠誠を誓う、
ということでこれはこのブログで再三、解説を加えている「専門家の倫理」である。
今回の事件で不特定多数とは生徒のことであり、文科省でも教育委員会でもない。教師は子供に対して忠誠を誓う。
第二条件は、第一条件を満足するための前提であり、
1)世間が三つの聖職を尊敬すること、
2)名誉やお金より職を大切にすること、
3)生活が保障されていること、
だ。厳しい要求はそれに応じた待遇と覚悟がいる。
今回の大津の中学校の事件は、日本の教師が聖職でないことによる。これは戦後の日教組の方針、社会の先生の対する態度、先生の待遇(給与ばかりではなく過重労働)、保護者の無理解などが重なって、現在のようになってしまった。
「子供のための教育」を期待するなら、まず第一に教師を聖職としなければならない。テレビ・新聞の論調を見ていると、やや枝葉末端にわたり、本質議論を避けているように見える。
(平成24年7月12日)
--------ここから音声内容--------
大津の中学校の事件は、昨日私がですね、「こういったものはまず『ウソ』があってはいけない」ということを書きましたが、すでに教育委員長をはじめですね、首脳部の前言撤回のようなことが続いております。警察が捜査に入る前代未聞の展開になっておりますが、これについてですね、私は必ずしも警察の導入は賛成ではない面がありまして、順序を追ってですね、話をさせていただきたいと思います。
この世の中にはですね、三つの聖職があります。これはですね、「命を奪っても良い人」、「体を傷つけても良い人」、「人の魂に手を入れても良い人」。この三つがあるわけですね。それぞれの職業の名前は「裁判官」、「医師」、そして「教師」であります。勿論、人の命を奪ってはいけないんですが、「裁判官」は死刑の判決をします。人の体を傷つけて良い筈がないんですが、「医師」は必要に応じては両足を切断したりします、ま、手術ですね。それから「教師」はですね、単に国語とか英語を教えるばかりでなく、子どもの成長に必要なことを教えて、魂を変えていきます。
その点ではですね、この三つの職業は極めて「奇妙な職業」でありますが、なぜこのような職業があるか?と言いますと、世の中に「犯罪人」があり、「病人」があり、そして「子ども」ですね。「子ども」っていうのはですね、「犯罪人と病人と同列にしてもらっちゃ困る」と思うかもしれませんが、そうではなくて、やはり「未完成」なんですね。ま、言ってみれば「傷のある人間」と言ってもいいわけですね。勿論、これは仕方がないわけです。病人もそうですね、細菌に襲われたというわけですから。そういうことが世の中に存在するので、特別な人に、これらの職をしてもらってると、こういうことですね。
しかし、そういう特別なことをするわけですから、これらの人に対しては条件がつけられております。第一条件、第二条件とありまして、このブログでも再三お話をしているもんですから、第一条件はサラッといきたいんですが、「プロの倫理を守れる」と。「プロの倫理」とは何か?と。「普遍的法則に従う」と、ま、これ「職業上の命令者」と言ってもいいんですけど、例えば医師ですと「命」。裁判官ですと「法」ですね。それから、教師ですと「真実」。こういったものがあってですね、「他の命令に従わない」ってことですね。
例えば、「上司がどう言った」とか、「教育委員会がどう」とか、「文部科学大臣がどう」とか、「医療法人の理事会がクスリを使えと言った」とか、そういうことには従わないと。それから、社会で特別な行為をするわけですから、それに応じた「長期間高度な鍛錬」を必要とします。これは、社会の中でそういう特別な仕事をするわけですから、それなりの鍛錬が必要であります。
それから、「不特定多数に忠誠を誓う」、これ難しいんですが。「社長の言うことを聞く」とかですね、「お金を払ってくれた人の言うことを聞く」というのは普通なんですが、普通の職業なんですが。えー、私も教師でありますが、学生から授業料を貰い、学長から命令をされても、私がつける採点だとか、学生の指導は私の一存でやる。つまり、「私にとっては学生が不特定多数」で、「私が忠誠を誓ってるのは、理事長でもないし学生が払った授業料でもなく、『学生そのもの』である」ということですね。これがまぁ「専門家の第一条件」であります。
今回はですね、例えば、普遍的法則に従いますから、教育の原理であるとかそういったもので、「先生方は、長期間高度な鍛錬をした人が、生徒に対してだけ忠誠を誓う」っていうことであって、文部科学省がどう言おうと、教育委員会がどう言おうと関係がありません。あるいは警察に有罪を言われても、あるいは関係がありません。
第二条件がありまして、これをちょっと今度は新しく踏み込みたいと思いますが、第二条件はですね、第一条件が難しいもんですから、それを満足する為の社会の前提ですね。「世間が聖職と認めて尊敬すること」です。これはですね、もう認めてはいるんですよ。つまりですね、死刑の判決ができるんですからね、こりゃあ尊敬せざるを得ないわけですよ。だって、自分も死刑の宣告を受ける…判決を受ける可能性があるんですけども、その時に、尊敬できない人から死刑の判決を受けたらいけないわけですね。
それに応じて今度は逆にですね、裁判官とか、医師とか、教師はですね、「名誉やお金より職を大切にしなきゃいけません」。これは当たり前のことですね。だからまぁ昨日は「ウソついちゃいけませんよ」ってことを言ったわけですね。それから、現実的には「生活が保障されていること」。つまり、「解雇されないこと」っていうのが重要ですね。これは教師については現在、大学教授だけに、ほぼ与えられておりまして、小学校から高等学校のいわゆる「教諭」はですね、半分サラリーマンになってしまいました。これはですね、戦後の日教組の方針が大きかったんですが、社会の先生の対する態度、それから、先生の待遇が非常に悪いですね。給与は低いし、過重労働であると。それからまた、良い先生が集まらなくなるという悪循環になっております。それから、保護者が先生を尊敬しないと。こういうようなことが重なってですね、これは大きな社会的問題として今後考えていかなければならないと思いますね。
私はですね、「先生は聖職である」と言うとですね、なにか「先生を持ち上げて」(と言われる。)いや、そうじゃないんです。実は子どもに一番良い教育とは何か?って言うとですね、まず第一に、先生は聖職にならなきゃいけません。例えば、生徒を呼ぶ時にですね、友達のように、もしくはまた上司のように、呼んではいけないんですね。病院に行きますと、「患者様」という呼び方。あれダメなんですね、ええ。これはね、別にね、患者の体に手をかけることが出来ない医師ならいいんです。それは相談相手ですから。だけど、そうではないんですね。
私たちは学生に対して「なんとか君」って言わなきゃいけないんですよ。それで、もし小学校とか、中学校で、呼び捨てで結構ですね。「武田」とかですね、これで充分なんですね。それはなぜか?と言いますと、先生というのは、生徒の上にいるんですよ。これね、あの、上下関係とか、そういうもんじゃないんですよ。職として上にいるんですね。そうしないとですね、先生が生徒の魂に手を入れることが出来ないんですよ、ええ。ですから、それは、相互の関係なんですね。ま、先生にも悪い所がありますよ。だけども、それを越えて子どもの為の教育としては必要なんですね。
私まぁ、昨日今日と、テレビ・新聞の論調を見ておりますと、やや枝葉末端に渡っております。このですね、「中学生の自殺」という大きな問題をですね、大切にするならば、つまり、亡くなった中学生に申し訳ないと思うんならですね、やっぱり本質議論を避けてはいけない。これはですね、戦争後のですね、非常に歪んだ日本社会がもたらしたものであります。
勿論、これ以外に注目点がありますから、このブログでも次に整理をしていきたいと思いますけども、まずここはですね、「私たち社会はなぜ子どものことを考えなかったんだ?子どもは先生が聖職でなければダメなんだ。先生の方も自分が聖職であるという心構えが大切なんだ。その為の待遇が必要だ」と。それは「私たちが子どもをどのくらい愛するかによって決まるんだ」と、ここをですね、私はもう一回ですね、日本社会でよーく考えてもらいたいなと思います。
(文字起こし by haru)