日本だけ(5) 日本海海戦(白人に勝った有色人種) (5/27)
日本海海戦は近代世界史の中でも、有色人種がはっきりと白人を打ち負かした戦争として大きな出来事でした。この海戦の結果、それまで「白人に勝てないに決まっている」とあきらめていた多くの有色人種の国が「勝てるのではないか」と思い、それが植民地解放戦争へとつながりました。
その点では日本海海戦は日本だけのことではなく、日本人が世界的偉業を成し遂げた一つだったのです。
(平成24年5月27日)
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さて、明治も色々経ちますと、暫く経ちますとですね、日本が独立国としてきちっとしなきゃなんない時期になりますね。中国も少しずつ力を付けてくる、ロシアはですね、シベリアからずーっと南下を始めまして朝鮮半島を占領しようと、ま、中国もですね、満州を全部獲りまして、いよいよ南下に取り掛かります。
えー、元々ロシアっていうのは南に行きたいんですね、北の国ですから。一回はトルコの方に行って…黒海ですね、クリミア戦争ってのをやります。えー、トルコはもうほんとに、ロシアが南下してくるのにほんとに苦労したわけですね。ま、トルコも非常に強い国で、オスマントルコという強い国がありまして戦うんですが、なかなかもう決着も付かないしロシアに虐(いじ)められると。
このロシアはついに太平洋の方まで出まして、ウラジオストク、まぁあの凍らない港を作りましたが、それでもダメなので旅順(りょじゅん(満州))まで来ますね、旅順港をロシアの軍港にするわけです。そこで、まぁ日本とぶつかるわけですね、新興国、日本とぶつかって、朝鮮を間にして戦いが始まるわけです、これが「日露戦争」ですね。
まぁ日清戦争の後、日露戦争が始まります。日本がですね、中国とロシアとアメリカと戦うのはこれしょうがないんですよ。日本の周りはですね、中国とロシアとアメリカですから、その他の国ありませんからね。ですからどうしてもその3つと戦うと、まぁそういう風になって、日清戦争が1894年ぐらいですかね、日露戦争が1904年ぐらい、そいからアメリカとの戦争、太平洋戦争が1940年と。まぁ3回してしまうんですけども、仕方ないってことでしたね。
えー、戦いが始まりますと、陸上は旅順、それから大連(だいれん)、そいから奉天(ほうてん)というとこでずっと進んでいくわけですが、海上はですね、旅順艦隊だけではちょっといけないということで、遠くですね、北海のリバウ(ロシア領リバウ軍港)というところにいたバルチック艦隊がですね、延々ヨーロッパの沖、アフリカの喜望峰を回りインド経由、シンガポールを通って延々日本にやってくるんですね、すごいですねー。
いや、この艦隊の移動つうのは大変なんですよ。何で大変かって言いますと、艦隊っていうのはあの最新鋭の艦はスピードが速いんですけどね、遅い艦もあるんですよ。そうすっとあの艦隊を組んで走るということはどういうことかって言うと、一番遅い船に速度が合っちゃうということでですね、なかなか上手いこといかないんですね。
こん時にイギリスはですね、日英同盟っていうのもありましたし、ロシアをけん制する意味で意地悪するんですね。ロシアの船が「何かどっかに寄港して石炭でも積んで、また休養でもしようや」って言ったら、「嫌だ」とか「ダメだ」とか言うんですね。当時イギリスっていうのは七つの海を支配してましたから、ま、直接的にロシアに戦いは挑みませんが意地悪ばっかするんで、ロシアもこてんぱんに疲れてですね、大体このシンガポールのマラッカ海峡を回るぐらいの時にはですね、もう嫌になってたわけですね。とにかく早くウラジオストクに着いて一息つこうと思ってきたところに、日本軍はそれを待ち伏せたわけです。
これが「日本海海戦」で対馬の横で行われます。バルチック艦隊が南の方から来るのを、北の方から回ってきた日本艦隊がぶつかりますね。ま、有名な「トーゴー・ターン」って言う、敵前ターンていうのをやってですね、船隊を組んで砲撃をするという、そういうまぁ一か八かの方法に日本は出るわけであります。
この時に日本側で参加した艦船の数は91、しかしそのほとんどが水雷艇駆逐艦(すいらいていくちくかん)て言うですね、小型船舶でありました。この頃はですね、まぁとにかく戦艦の勝負、戦艦以外は無いも同じ、とこういう時代でしたが、ロシア側は戦艦8、これに対して日本側は戦艦が4という状態でですね。
まぁ到底これでは勝てないと、日本は数が多いつったってですね、通報艦なんて何の役にも立たないのが3・・・何の役にも立たないって言ったら怒られちゃいますけど、戦いには役に立たない。駆逐艦が21、水雷艇39つってですね、ほとんど小っちゃい船ばっかだったわけですね。
えーところが、戦争始まってみるとですね、ものすごい日本が強いんですよ。結果的にどうなったかって言うとですね、日本は沈んだ船が水雷艇の3隻だけ、ま、水雷艇っていうとほんとに小さな船なんですね。戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦12隻という主要艦隊は全く損害を受けません。これに対してロシア側はですね、戦艦8隻のうち6隻が沈み、2隻が捕獲されると、装甲巡洋艦3隻のうち1隻が沈み2隻が抑留される、巡洋艦も6隻のうち4隻が沈み、まぁ逃げられた巡洋艦は1隻だけ。
つまり戦う船は戦艦と装甲巡洋艦と巡洋艦ですからね、この3つでですね、日本は無傷、ロシアはもう、こてんぱんにやられてしまいました。そういうことでロシア側はですね、1万6千名の海軍兵隊がいたわけですが、そのうち約1/3、5千名が死んでしまって、6千名が捕虜になるという壊滅状態ですね。日本の実死者は116名しかいないという、まぁ画期的な戦いになってしまった。これにはあの、命中率を上げた訓練、そいからあの伊集院信管(いじゅういんしんかん=起爆装置)、それに下瀬火薬(しもせかやく=爆薬)と。
あのロシアはちょっと古い黒色火薬(炭素が燃料の火薬)でしたからね、一回ドーン!って撃つと煙がもうもうと上がってですね、次の一発を撃つのに結構時間が掛かるんですけど、下瀬火薬はその点ジャンジャン打てると。命中精度も高いっていう、まぁ非常にそういうとこが出ましたですね、ほんとに技術力の差と訓練の差が出ました。ま、これで猛烈に違いますね。
大体ですね、もしも日本が何とかしても互角ぐらいの勝負かと、普通はロシアが勝つだろうと思ってた世界中はビックリします。これはあの今まで白人と有色人種が戦うとどういうことだったか、例えばアヘン戦争ですね。1842年、戦いが最終的に2個(2戦)ありましたが、清軍が千人死んだらイギリス軍が9人とか、清軍が千6百人死んでイギリス軍が37人とか、そういうですね、千対50とかいう、そういう比率になったんですね。
それがですね、ロシア兵5千死んで日本兵100名死ぬっていう、今まで有色人種と白人が戦った時と全く逆になっちゃったんですよ。ま、これでビックリしました。白人側は非常にビックリしたし、有色人種側はものすごく元気づいたんですね、だって歴史上、有色人種が初めて勝ったんですから。いやもう、これはね、「もう白人に勝てないと思ってたけども、日本勝つんだ」ということで、もちろんトルコなんかも大喜びしちゃいますし、多くのところが喜んじゃいますね。
ま、日本は今「自虐史観」て言ってですね、「日本がダメだ、日本がダメだ」っていう方へ一所懸命やって、日本が良かったっていう方は全部無視するという、そういう歴史を教えてますから、この戦いの意味を教えてません。もちろん大勝したというのは、軍事的に意味があることでありました。それから文盲率(もんもうりつ=読み書きができない人口の割合)が非常に低かったんですね。あの当時の大英帝国よりか、新興日本の方が文盲率が低い。つまり教育が充分に行われて、海軍のですね、兵隊もちゃんと・・・水兵さんもちゃんと分かって戦争をするっていう。
それから「日本という国があった」ってことですね。これは第一回で言いましたけども、マルコポーロ以来ですね、日本は孤立しとりましたから、四方を海に囲まれて、「日本は国だ!」と思ってましたんでね。ま、そういうこともあって日本兵が強かったわけですね、それに技術開発力、そんなの色々ありました。
いずれにしてもこの戦いの意味はですね…世界史的な意味はですね、有色人種が白人に勝った初めての例であり・・・近代ではですよ、かつそれによってですね、今まで押さえつけられていた有色人種が「頑張ろうかな」っていう気になったっていうことですね。
のちに第二次世界大戦の後、どんどん独立していきますが、それの下支えをやったのが、二十世紀の初めに起こったこの日露戦争における日本海海戦の日本軍の大勝であったと、まぁいうことですね。この時に勝った東郷平八郎は、のちに元帥(げんすい=軍隊における最上級の称号)になり、東郷神社ていうのまでできるんですけどね、ま、当然であります。
しかしこの戦争があまりにも鮮やかだったんで、のちに大鑑巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)と言われる、戦艦中心のものになっていくと、まぁいうような弊害もありました。ま、仕方が無いことですね。ま、そういうことがあって、実は白人に勝ったのは「日本だけ」と、まぁこういうですね、輝かしい歴史になったわけですね。これはその後も全部そうでありまして、未だに有色人種が白人に勝ったという例は無いと、それが残念ながら事実であります。
(文字起こし by danielle)