諸行無常の科学的解釈・・・なぜ鐘の音は鐘に戻らないのか? (5/2)
世の中には当たり前のように見えて実に不思議なことが多いものである。マイナス40℃の氷を暖めてマイナス20℃にする時、氷を暖めるので氷の一部が融けるような気がするが、不思議なことに氷は0℃(融点)にならないと融けない。これは奇妙な現象などで小学校で融点を学ぶが、日本人のほとんどが温暖化騒動で「氷は温度が上がったら融ける」という宣伝に引っかかった。
地球は平らと思っていた頃、朝、東から昇った太陽は西に沈む。西に沈んだのだから次の日は西から昇るように思うのだが、不思議なことに毎日太陽は東から昇る。いったい、いつの間に西から東に行ったのだろう? その回答は「太陽は毎朝、東の土から出来て、西に沈み土に戻る」というものだった。人間は最初に間違う(地球は平ら)と、結論も間違う(太陽は土から出来る)ものであることがわかる。
・・・かくのごとく人間の知恵ははかない・・・
お寺の鐘を叩くと、その鐘の音は不思議なことに四方八方に広がり、決して戻ることはない。なぜ鐘の音は再び鐘に帰ってこないのだろうか? なぜ川を流れるものは絶えず上流から下流に流れ、とどまることを知らないのだろうか?
今の人間はお金のことばかり考えているけれど、昔は自然との距離が近かったから、自然の中に実に不思議なことが多いのに気がついていた。その一つが「諸行無常」だ。人間は誕生し、成長し、全盛期を迎え、やがて衰えて死ぬ。それは人間ばかりではなく、他の生物も、川も山も何もかも誕生して成長し、やがて死を迎える。なんで「ジッとして」いなのだろうか?
この世にはジッとしているものはない。どれもこれも変化する。樹木を見ると元気よく新芽をだしているのだから、そのまま10年ぐらいは変わらなくても良いのに、慌ただしく紅葉し、落葉する。なんと気ぜわしく、もったいないのだろうか?
人間社会も科学も何の意味があるのかわからないが、「進歩、革新、新しいこと」とうるさい。科学が人間を幸福にしてくれることなど無い。もし科学が幸福にしてくれるということと、科学が進歩するということを組み合わせると、人類は絶滅の直前にしか幸福にならない。なぜなら、人類が絶滅の寸前がもっとも科学が進歩してるときであるし、その人類から見ると1000年前の人は科学技術が遅れていたために「不幸」であると言うことになるからだ。
なぜ、進歩も変化も無駄であることを知っていて、進歩や変化を求めるのだろうか? なぜ、あらゆるこの世のものは諸行無常なのであろうか? それは今から147億年前、ビッグバンという事件によって時間が出来たからだ。そしてその時間は過去から未来にしか流れないので、その時間の流れに遅れまいとすべてのものは変化してやまない。
実はこの世に生まれたものはすべて「ジッとしていること」はできない。鐘の音は「その場にとどまっている」ことは不可能で、どちらかに行かなければならない。つまり鐘の音はお寺の中に留まっているということ自体が宇宙の力を受けて不可能なのだ。
人間も必ず歳を取る。どんなに若く見える人でもいつまでも赤ちゃんのような肌を持っている人はいないし、90才になれば体の自由は若い頃のように効かない。生物は日々、体を入れ替えることが出来るのだから、変わらなくても良いように見えるが、そうはいかないのだ。
「エントロピー増大の原理」と言っても良いし、「時間は止まらない」と表現してもよい。平家物語(仏教)のように「諸行無常」でも良い。とにかく止まっていられない!という一大欠点が私たちを悩ましているのだ。
毎日を止まるとストレスがたまる。毎日、過度に動くと辛い。私たちは宇宙の動きに従って、「適切な変化」を強いられている。しかし、それはとても良いことでもある。私は「昨日も晴れ」と書くことがあるが、過去は流れていくので、悪いことは思い出さないですむ。昨日がどんなに土砂降りでも「晴れ」と思えば、二度と再び昨日は来ないので、土砂降りは晴れになる。
あまり長い間の変化も予想すると頭が痛くなる。だから、今日一日ぐらいが良い。それが私の「今日も朝」だ。私の人生は昨日で終わったかと思ったら、今日も朝が来た。それなら今日一日ぐらいはまた頑張るか!という具合である。長期的目的はたてない。変化は変幻自在であって、どうなるか予想もつかない。30年前は携帯電話もなければ、ほとんどクーラーすらなかった。地球が温暖化するなどということは全くなく、私の知り合いは「寒冷化に強い作物」の研究をしていた。
進歩は良くもあり、悪いくもある。変化はせざるを得ないが、良いとばかりは限らない。でもそれが人間、生き物、そしてこの宇宙に住むものの定めだ。
20年前、私は川にも山にも、誕生があり、成長、繁栄があり、衰退と死があるのに気がつき、愕然としたことがある。人間だけではない。それが私たちに時の大切さ、今の大切さを教えてくれる。
(平成24年5月2日)
--------ここから音声内容--------
人間の知恵というのは実に儚(はかな)いもので、えー、ま、しょっちゅう間違えるわけですね。まぁ地球温暖化騒動のあったときにですね、何か「温暖化すると南極の氷が融ける」というような話があったわけですが。えー、マイナス40℃、南極マイナス40℃ですけども、マイナス40℃の氷がたとえマイナス20℃になってもですね、ま、融けないわけですね、融点になるまでしか融けないと。ま、これはもう非常に奇妙ですね。えーまぁ、小学校でそういうの習うんですが、やっぱり何かこう事件が目の前に起こるとですね、ま、人間はコロッと騙されてしまうわけですね。
えー、ま、地球は昔、平らだと思ってたわけですが、朝、東から昇った太陽は西に沈みます、地球は平らですからね。えー東京から鹿児島に行った人が、次の日には鹿児島から新幹線で東京に戻ってくるのだというのが普通ですけども、太陽だけは毎日、東から昇ると。“変だなぁ”とこう思うわけですね。
ま、それに対する回答は、えー「太陽は毎朝、東の土から出来て、西に沈み土に戻るんだ」と、毎日の太陽は違う太陽なんだ、と。こういう風に理解して、納得するんですね。人間は、ま、このぐらいなもんでありまして、えー、「地球が平らだ」という風に最初に間違えますと、「太陽が土から出来る」っていうんで納得するっていう風に、結論を間違えるわけですね。
えー、これと、ま、同じようなものに、「諸行無常」というのがあるんですね。えーこれ、ほんとに変なんですけど、お寺の鐘を叩きますとね、その鐘(の音)はね、四方八方に広がってくんですよ。あるところまで行ってまた鐘の方に戻る、って事がないんですね。ま、川もそうなんですが、これ止まらないんですね、水の長さが。
今の人間っていうのは、自然との距離がずいぶん長くなりました。私はあの、ベートーベンの「月光」なんていうのをこう、聴きますとですね、ピアノ曲ですけど。何かガラスをはめていない天井に近い小さな小窓からですね、月の光がこう・・・差してくるのを感じます。やはりそういう時じゃなくちゃ、ああいう曲っていうのはもしかしたら出来なかったかもしれませんね。今のようにコンクリートに囲まれ、アスファルトの道路、クーラーなんていうものでですね、ま、自然との距離はずいぶん長くなりまして。えー諸行無常というのもですね、えー、あまり感じなくなりましたが。
しかし人間は誕生して、成長し、全盛期を迎えて、やがて衰えて死にます。何であんなに栄えていた人が死ぬんだろうか?、ま、これは他の生物でも、山でも川でもみんな同じですね。つまり、「じっとして」ないんですね。世の中にはじっとしてるものが、実はないんですよ。なんだか知らないけど樹木もですね、新芽を出したと思ったら枯れてしまうし、紅葉したり落ち葉になったり。ま、とにかく気ぜわしいんですね。
えー、これがまぁ人間がその、頭で考えるようになりますとですね、実は変なことになりましてね、「科学を進歩さした方が良い」とか「世の中を変化さした方が良い」っていう風になるんですね。えー、もしもほんとに科学が人類を進歩さしてくれるんなら、科学はもし進歩するとしたら、で、幸福にしてくれるとしたらですね、えー人類は絶滅の直前に幸福になるはずですね。
ていうのは、今から千年前、今から千年後、2千年後って少しずつ少しずつ科学が発達してきます。えー従って、今の人間よりか千年後の人間の方が幸福だし、千年後の人間よりか2千年後の人間の方が更に幸福でしょう。そしてそれをずーっと続けていきますからね、ついに人類の絶滅の寸前に幸福になって絶滅してしまう、とこういうことになるわけですね。変な話ですね、ええ。
だから、進歩も変化も無駄なんだけども、進歩や変化を求めるわけです。これは何故かっていう私の解釈はですね、実はこの宇宙は147億年前にビッグバンという事件で『時間』が出来たわけですね。それまで、ま、「時間」無かったわけですが。で、時間が出来たんで、時間がずーっと過去から未来に流れていくんですよ。
そうしますとね、この流れに合わせて何かやってなきゃいけないんですね。これがまぁ、今のこの世に生まれた人の宿命なんですね。だから、「鐘の音もその場に留(とど)まっておれない」んですよ。別にあの、お寺のですね、中に留まってれば、ま、うるさくなくて良いわけですが、外に出てしまう、これが宇宙の力なんです。
ま、人間も必ず年取るわけですね。私、かつて「自己修復材料」つうのやってたときに、何で人間の肌は(いつまでも)赤ちゃんのような肌を持ってないのかと非常に不思議でしたね。生物っていうのは日々、体を入れ替えられるんですよ。例えば、胃壁なんかはですね、しょっちゅう入れ替わって若々しい肌になってる。
どうせ作り変えるんなら、きれいな皮膚を作り変えりゃいいのに、作り変えないですね。ま、これはま、難しく言えば「エントロピー増大の原理」と言っても良いし、ま、「時間は止まらない」と言っても良いし、「諸行無常」と言っても、まぁ良いわけですね。
ま、この、我々は人間ばかりでなくて自然界全部、止まれないというですね、これがやっぱりストレスにもなるんですね。かと言って、その、止まってるとストレス、過度に働くとストレス、ちょうどその宇宙の動きに沿って動くと、まぁいうことですね。これがお釈迦さんの言っている、「中庸」じゃないかと私は思ってはいるんですね、ええ。で、中庸を理解するのはすごく難しいんですよ。そこでですね、あの、中庸が大体解るのは一日かな、と私思ってるんですね。
それで、「昨日は晴れ」、つまりですね、えー、昨日はもう雨でもどうでも(悪いことがあっても)、「晴れ」と言ってしまえば(思ってしまえば)戻ってこないんです。「今日も朝」っていうのはですね、私書くんですけど、これは“あ、今日は朝来たな”と、“昨日で私の人生終わりかと思ったら、今日も来たな”と。“じゃ、また今日一日ぐらいは頑張るか!”、ま、つまり、長期に目標を立てますとね、宇宙の動きとずれてきちゃうんですね、自分が辛くなってきます。それを合わせるということが必要になわけですね。
まぁ、えー私がこう見てますとですね、ほんとに30年前っていうのは携帯電話も無ければ、ほとんどクーラーすら無かったですよ。ま、地球が温暖化するなんてこと、全く無くてですね。私の知り合いで、のちに地球温暖化の旗振りになる人がですね、「寒冷化に強い作物」の研究をしてました。
まぁ・・・どれが良いんでしょうか?分かりませんけども、私はですね、宇宙が、その進んでいく程度に合わせて、変化も良い・悪いの問題じゃなくて、我々はそれをせざるを得ないんだなと。それが『諸行無常』でありましてですね。
えー私はまぁ20年前に、ほんとにこう、心の底から山にも川にも、誕生、成長、繁栄、死があるんだなと、まぁほんとにそれを実感して、ま、理屈では知っとりましたけど、愕然としましたですね。時も大切である、今は大切である、えー、人間はじっとしていられない。ちょっと早かったりすると、またちょっと遅かったりするとストレスが起こる。ま、その中で、ま、人間ていうのが生きているわけですね。
平家物語は「諸行無常」と言いですね、本田宗一郎は「どうせ人生っていうのは死ぬんだ」と、「だからまぁ、好きなことやって人生送りゃ良いじゃないか」と、こういう言葉を残しとりますが。ま、偉い人は、お釈迦さんの「中庸」にしろですね、ま、それぞれの人が、ま、宇宙の現実、宇宙というものを知ってですね、そして生活をしてる、と。ま、いうことを感じますですね。
(文字起こし by danielle)