自分と違う意見を聞くのが楽しい?! | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

自分と違う意見を聞くのが楽しい?! (5/1)




私は科学、それも自然科学の実験系だったからかも知れませんが、「自分の考えていることは間違っている」という確信があります。これは私ばかりではなく、自然科学に長く携わってきた学者の多くは同じだと思います。


学問はシッカリ積み上げた学問的体系に基づいて考えたり行動したりするものですし、学問的体型はこれまでの知識と論理で「専門家なら誰でも同じ結論に達する」程度まで進むのですから、それが間違っていると言うことはないようですが、それでも人間の知恵は浅はかで修正、訂正、新しいことの発見があるのです。


つまり、ある意味で、今の学問体系が間違っているから研究が続けられると言っても良いのです。私たち科学者は常に目の前にある「事実」は「本当の事実」では無いと思います。それは私たちが見るもの聞くものはそれらそのものではなく、自分の目や耳というものを使って観測しているからです。


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民主主義、多様な社会、そしてダダ漏れ(秘密なし)はとても良いもので、自分と違う考えを聞くことが出来、それによって自分の考えを修正したり、間違いに気がついたりします。「おまえが間違っている」と言えるのは神様ぐらいなもので、人間なら「自分が正しいか、相手が正しいのか」はまったくわからないはずだからです。


ただ、それが「不誠実」に及ぶと私もやや感情的になることがあります。相手が「ウソをついても良い。不誠実で良い」と思っているとき、「ウソをついても良い」というのが正しいかも知れないので、それも認めなければならないのですが、どうもお互いにウソをついていたら話し合う意味がないような気もするからです。


確かに、「この世はウソのつきあい」と思っている人もいますし、私は「ウソのない社会の方が気楽で発展する」と考えていますが、これもどちらが正しいかわかりません。日本に経典や戒律のある宗教が基礎にあったら、このような「基礎の基礎」についてはなかなか人間では決められないところがあります。


かつての日本はこのような基盤となる倫理を「単一民族、周りは海」という環境の中で暗黙の合意でやってきましたが、社会が複雑になり、いわゆるグローバリゼーションが進み、必ずしも暗黙の合意ではすまなくなってきたと感じます。また小学校ぐらいの時に「ウソをついたらダメ」と繰り返し教えられると、何となく後ろめたい感じになるのですが、今の教育のように「自分だけ良ければ良い」というのが基本になっていると、なかなか嘘つき社会をなくすのは難しいでしょう。


せっかく、自由な社会、言論の自由を手に入れても、ネット社会に見られるような激しい個人攻撃や、マスコミで見られる「禁句や干す」というのが横行しているのを見ると、民主主義、表現の自由、価値観の多様化、家庭や地域の崩壊の中で、私たちが絶対的な権威が無い状態で合意を形成できるか、深く考える時が来たのでしょう。


私は時に二重人格と呼ばれることがあります。私の中には「自分が正しいと思う」ことがあり、相手の考えを聞くとそれが自分の考えと正反対でも「なるほど」と納得します。この「納得」は「同意」ではなく、「相手の言うことがわかった」と言うことなのですが、納得すると「先生は先ほど、違うことを言ったじゃないですか」と言われます。


相手の考えを納得するというのは、相手の意見を真の意味で理解することで、それは自分の考えを変えたと言うことと同じではないからです。世の中の喧嘩の多くは、相手と本当に考えが違うのではなく、相手の考えを理解していないところにあるように思います。この誤解の多くは、「自分に有利なように巧みにウソをつく」という人間の本姓に根ざしているのでやっかいです。


もし、この世が「ダダ漏れ(なんでもオープン)、ウソなし」なら、簡単で明るいように思いますが、それでは人間の集団とは言えないのかも知れません。でも、これほどの閉塞感があり、子供たちも未来に希望を持てず、政府もなにか陰でこそこそやっているような感じですから、「ダダ漏れ、ウソなし」ぐらいの社会を作った方が日本は良くなると思います。

(平成24年5月1日)



--------ここから音声内容--------




えー私はあの科学、それもあの自然科学ですね、物理とか化学とかこういった、まぁものの特に実験系でありましたので、「自分の考えてることが間違ってる」という確信があるわけです。こんなこと言うと、ま、怒られるんですけど、ま、実験をするとですね、ほんとに自分の考えが未熟だったということを、もうほんとに痛切に感じるんですね。これは私ばかりでなくて、ま、自然科学に長く携わってきた学者の方は多くは、まぁそういう風に思っておられると思います。





学問っていうのは非常に難しいんですよ。非常にしっかりと積み上げた学問的体系に基づいてやってるんですね。で、これはもう非常に厳密であってですね、今までの知識と論理で、ま、「専門家では誰でも同じ結論に達する」という程度まで進むんですよ。





例えば、太陽の周りに地球が回ってると、太陽系をきちっと描けると。ま、こういう風にして積み上げてくるんですね。だけど、間違ってるんですよね。ま、これがですね、ま、人間の知恵の浅はかさなんですね。えー、ま、逆に言えば今の学問体系が間違ってるから研究が続けられるということもあるわけですね。私たちは常に、目の前にあるものはこれは「事実」ではないんじゃないか、「本当の事実」は別のところにあるんじゃないかという風に思ってるわけですね。





えーそれは何故かと言いますと、私たちはものを見たり聞いたりすんのは、それらそのものじゃないんですよ。自分の目、自分の耳を使ってますからね、そこでやっぱり間違いを起こすんですよね。まぁ恐れがあったり、希望があったり、自分の得になったりっていうことで、どうしてもですね・・・それから今までの知識が邪魔したりします。





ところがその、「民主主義」とか「ダダ漏れ」(秘密なし)っていうのは僕、非常に好きなんですよね。それはどうしてかって言うと、まぁ自分と違う考えを聞けるわけですよ。そうすっとそれによって、これ実験みたいなもんですよね、“ああ、なるほど!”と。自分の考えを修正したり、間違いに気が付いたりします。まぁ「お前が間違ってる」という風に自信を持って言えるのは、神様ぐらいなもんでしょうね。





だって、人間だったら、「自分が正しいのか相手が正しいのか」全く分からないわけですからね。これ、分かったら大変ですよ。えー、「自分が正しい」って言う人に「何であなたは自分が正しいとお考えですか?」って、「いや、自分が考えてるからだ」と。それはそうかもしれないですけどね、相手はあなたと違う考えを正しいと思ってるんだと、まぁこういうことですね。





ただあの、私の場合はですね、実は時々ちょっと腹が立つこともある。それはね、「不誠実」な場合なんですよ。相手でよく「嘘をついても良い」って言う人もいるんですよ。えー、その「嘘をついても良い」つって、ほんとに嘘つく人にはちょっと腹立つことあるんですね。ただですね、更に踏み込むと、「嘘をついても良い」って言う方が正しいかもしれないんですよね。それも認めなきゃなんないかってことなると、なかなか難しいなぁと思うんですね。





えー、「この世の中、嘘のつき合いなんだ」と思ってる人もいますし、私なんか「嘘のない社会の方が気楽でいいや」と思ってんですけど、どっちが正しいかはちょっと判りませんね。こういった問題は、もし日本に宗教の教律とか戒律があれば…経典、戒律があればですね、神様がお決めになっていただけるんですけど、日本にはこの「基礎の基礎」は無いんですよ。





で、今まではこの基礎をですね、「単一民族であって、周りは海」だという環境なので、暗黙の合意があったわけですね。例えば、「恥をかく」なんていうのはそれなんですけど、しかし日本社会が複雑になり、いわゆるグローバリゼーションが起こって、ま、他民族なんかも入ってきますと、ますます暗黙の合意は難しいわけですね。





えーしかし、せっかくその中で自由な社会、言論の自由が手に入ったように思うんですが、ま、ネット社会みたいに、その中のほんとに典型的な自由、言論の自由があるところでですね、激しい個人攻撃があってですね、発言が封じ込まれちゃう人がいるんですよね、活動が。怖がってですね。





それからあのマスコミの方は「禁句」がものすごくあってですね、それから「干す」っていうね、その「もうあの人は出さない」っていうのが横行してる。つまり、私たちは民主主義であり、表現の自由があり、価値観の多様化を認めている、と。同時に家庭とか地域の崩壊もしたという中で、ま、権威が無いんですよ、絶対的な権威、「絶対的にこれが正しい」ってことは無いんですね。そういう中で合意形成ができるのかな、ということを深く考える時期だと思います。





私はところであの、時に二重人格と呼ばれることがあるんですが、これはですね、「私が正しいと思うこと」と、「相手のことを納得する」っていうのを二つ同時にやるんですね。この相手のことを「納得」するっていうのは「同意」ではないんですけども、“ああ、なるほど。あなたはそうお考えですか”ってことは判るんですよね。





そうすっと、よくですね、「武田先生は先ほどと違うことを言って、納得してんですか?」ってこう言われることあるんですけども。相手の考えを納得するっていうのは、真の意味で相手の言うことを理解するって言うこと、“ああ、なるほど。相手は「嘘をついたのは正しい」と言ってる”と、 “よくよく聞いてみると、確かにそれも言えるかな” とこういうのがですね、「相手のいうことを聞く」っていうことなんですね。





自分にはもう、到底納得できない、到底同意できないことでも、相手には相手の理屈があるんですね。「自分だけ良ければいい」と、「子供はガンになっても良い」ってこう考えてる方がおられるのか、「だけども、それを言うとみんなの反撃に遭うから、まぁ今んところ1年100ミリと言ってる」とか、っていったことを全部聞きますとね、“あ、そうか”と思うこともあるんですね。





ええとまぁ、これを素直にやってほしいとは思うんですが、ま、人間ですからね、「自分に有利なように巧みに嘘をつく」というのが人間の本性ですから。まぁ、仕方がないかなと思うんですが、私はですね、「ダダ漏れ社会(何でもオープン)、嘘なし」という方がまぁ簡単で良いような気がします。





えー、ま、それじゃ人間の集団と言えないじゃないか、と言われるかもしれませんがですね、やっぱり今の日本は閉塞感ありますね。子供も将来に希望を持てない時代ですね。我々自体、大人もですね、何か日本の将来に不安を持ってますね。やっぱりこれを打破するにはですね、私は「ダダ漏れ、嘘なし、他人の考えを聞く」と、これ聞くだけですよ、別に同調するとか・・・まぁバッシングは止めた方が良いですね。まぁ僕はバッシング割合と平気なんですけども、バッシングが気になる方って多いんですよ。





だから、やっぱり「自分はそう思うから、相手を罵倒する」っていうんじゃなくて、「自分はこう思います」とかですね、「相手はどうして自分とそんなに違うんだろうか?」と、ま、いうことを考えるような社会ですね、こういうのになった方が良いと思いますね。





テレビもちょっと、この罵倒し合う番組をもうそろそろ止めようじゃないかと、ま、いうようなこと言っとりますしですね。えーまぁ、そういうことも考え合わせますと、ま、日本がより明るい楽しい社会の方に行けないかなぁと、こう思います。


(文字起こし by danielle)