「本音と建て前」のない人たち・・・科学的事実と空気的事実 (3/23)
日本は「本音と建て前の違う社会」と言われます.四面が海に囲まれ、周りの人との人間関係がもっとも重要ですから、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」と言うとおり、本音を言わずに難しい問題を処理する習慣があります。
2011年の福島原発の後、長く日本人を被曝から守ってきた「1年1ミリ」という基準をいとも専門家が簡単に捨て、さらに「法律で決まっている」と言う私に「法律を守るなんて何だ!」と反撃してくる指導的立場の人の心が、私には理解できなかったのです。
昨年まで1年1ミリと言っていた人がなんで急に1年100ミリになるの?と思ったのですが、実は、その人の「本音」も「建前」もなかったのです。建前なら法律で決まっているのですから、「酔っぱらい運転はいけない」というように法律に基づいたことを言うでしょうし、「本音」は本音ですから、1ミリなら1ミリ、100ミリなら100ミリと統一されているでしょう。
このような経験は、リサイクル、温暖化、赤字国債など私が疑問を呈してきたことに対する評論家や専門家との議論で今まで何回か経験したことでした。リサイクルですと、エントロピー増大の原理にあからさまに反することを言う学会の学者に対して「どうしてこんなに普段から教えていることと違うことを言うのだろう?」と不思議に思いましたし、温暖化では「空気を暖めても海は暖まらない」という簡単な伝熱と比熱の問題に触れないで話をする学者に強い違和感を覚えたものです。
しかし、徐々にその疑問も解消していきました。現代の日本社会には、「本音」、「建前」の他に「空気的事実に基づく」という方法があることが判ったのです。つまり「本音」というのがその人の本当の考えとすると、「建前」は社会の規則や表面上の言動で、建前というのは「本音」があって初めて成立するものです。
それに対して「空気的事実」とは「本音がない」ことが前提、つまり自らの意見がなくて、その時その時に応じて周囲の空気を読み、それに応じて事実を創造してそれに基づいて話すことを指しています。
たとえばリサイクルですと、「分別したもののほとんどは燃やしている」、「焼却をリサイクルに入れているのでリサイクル率が高い」ということをすべて知っているのに、「周囲の空気はまだリサイクルがよいということになっている」ということを読み、「リサイクル率は60%もある」などと言います。このとき、科学的事実(焼却を除くとリサイクル率は5%以下)ということを知っていても、空気的事実(リサイクル率は60%)と言うことになりますが、これは建前でもなく、空気的であっても事実ですから本音でもあるのです。
その人と面と向かって1時間も話せば、間違っていることが明らかになることでも、短い時間、テレビのスタジオのようの限定された場所では「何を言っても逃げ切れるから、空気で行こう」ということです。つまり私の相手をしていた人は「本音も建て前も無い人」だったのです。バカらしい!!
被曝限度もそうで、原発の事故直後、みんなが「被曝など大丈夫。法律はない」と言っている時には空気的事実は「法律はない」ということになりますし、1年も経ってどうやら法律は1年1ミリを基準にしていることが判ると、「法律にある」というのが空気的事実になるのです。実は、本人は1年20ミリでも1ミリでも0.1ミリ(ドイツ)でもなんでも良く、その時の空気だけで事実を決めているのです。
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このことに気がつくのが遅かったのは、科学者としての私は「事実」からスタートしますので、他の人も事実に立脚していると思ったのです。またお医者さん、工場の人、営業、農業など「実業」をしている人も事実が最初です。
でも、考えてみると「東京に住んでいる評論家」は「客観的事実」が事実ではなく「みんながそうだと思っていること=空気」が事実なのです。だから、「空気に従う」ということは彼らにとって事実を重んじていることになります。
たとえば、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは「科学的事実」とは反しますが、「空気的事実」には合致しているのです。だから、事実認識が違うことになります。実に奇妙な時代になったものです。
(平成24年3月23日)
--------ここから音声内容--------
ええとその、日本はですね、「本音と建前という社会」でありますが、「あなたはそれ、本音で言ってんの?」とかですね、えー、「建前だけ言ったって、ダメですよ」なんて言うんですけども。これは四面が海に日本が囲まれておりましてですね、周りの人との関係が最も大切ということで、ま、聖徳太子もですね、「和をもって尊しとなす」と、まぁ言ってるわけですが。本音を言わずに、まぁ難しい問題を処理するという、まぁ習慣が長く続いてきたわけですね。
えー、実は2011年の福島原発の後、えー、長く日本人を被曝から守ってきた「1年1ミリ」という基準を、いとも簡単に専門家が捨ててですね、えー、私が「法律で決まってる」と、ま、言うとですね、えー、「法律を守るっていうのは何事か!」っていうようなですね、反撃をしてきた人がまぁずいぶん多かったわけですね。
えー、私はそれに対してちょっとこう、どういうふうに理解して良いか?と思っとりました。で、それが実は「本音」なのか「建前」なのかと、こう思ってたわけですね。ま、建前なら法律で決まってるわけですからそれが良いわけで、「酔っぱらい運転をしてはいけない」と、ま、いうふうに言うと。心ん中は“酔っぱらい運転ぐらい良いんじゃないか”と思ってる、とこれが本音なわけですね。えー、まぁそこのところがちょっと分からないでいたわけですね。
しかし、このような経験は、リサイクルとか温暖化とか赤字国債なんかの問題で、私が疑問を呈してきたことに対する、評論家や専門家との議論というのは何回か、まぁ経験しました。ま、リサイクルでほんとに専門の先生と議論しても、「エントロピー増大の原理」に対してもあからさまに反するわけですね。だけどその先生は普段から「エントロピー増大の原理」教えてるんで、“どうしたのかなぁ?”と思ったりですね、温暖化では、まぁ「CO2で空気が暖まるわけですが、海は暖まらない」わけで、“まぁちょっと無理な議論だなぁ”と思うんですけども、ま、そういうことがある。
しかし最近ではですね、かなりその疑問が解消してきました。えー、現代の日本社会はですね、「本音と建前」じゃないようですね。「空気的事実」っていうのがあることが判ってきました。えー、つまり「本音」というのがその人のほんとの考えであるとすると、「建前」は社会の規則とか表面上の言動ですね。「建前」ができるのは、まぁ「本音」があって初めて、まぁ対立関係として成立するんじゃないかと思うんですが。
その(それ)・・・に対して「空気的事実」って言うのはですね、「本音がないこと」が、まぁ前提なわけですね。つまり自分の意見とかそういうのが無くて、その時その時に応じて周囲の空気を読んでですね、それで事実を作ってしまうっていう、そういうことなわけですね。
例えばリサイクルですと、その本人は「分別したものがほとんど燃やしてる」とか、「焼却をリサイクルの計算に入れてるのでリサイクル(率)が高い」とか、「プラスチックや紙のリサイクルは意味が無い」っていうことを知っているんだけども、「空気としてはリサイクルが良いということになっている」ということで…ま、『空気的事実』ですね、「リサイクル率は60%ある」とかそういうようなことを、まぁ言うわけですね。
で、こういったものはですね、その人と面と向かって一時間も話してれば間違いが明らかになるわけですが、ま、短い間とか時間とか、テレビのスタジオのような限定した場所ではですね、「空気的事実を言っても逃げ切れる」んですね。えー、つまり私が相手にしてた多くの人は「本音も建前も無い、空気的事実の人」なんですよ。ま、バカらしいと思っちゃうんですね。
被曝限度もそうで、原発の事故直後、みんなが「被曝など大丈夫だ。法律はない」と言ってるときは、えー、「被曝など大丈夫だ」、「1年1ミリなど意味がない」という『空気的事実』を発言し、1年ぐらい経って、どうやら法律は1年1ミリを基準にしてんのが判ると、少しずつやり方を変える。
つまり本人は、「1年1ミリ」でも「1年20ミリ」でも「1年0.1ミリ」でも、何だって良いんですよ。その時の空気で、空気的事実を創り上げて発言してるわけですね。
私がこのことに気がつかなかったのはですね、科学者としての私はもちろん「科学的事実」からスタートしますから、他の人も科学的事実に立脚すると思ったわけですね。そいからお医者さんだとか、工場の人とか営業の人とか農業の人、みんな「実業」してるので科学的事実に基づいてるわけですね。
しかしどうもね、「東京に住んでる評論家」っていうのを例えば取り上げますとね、科学的事実っていうのは、ま、どうでもいいんですね。考えてみるとみんながそうで思ってること、「空気的事実が事実」なんですよ。ですから「空気に従って事実をつくるっていうことが、事実を重んじてる」っていうことになるわけですね。
例えばですね、温暖化ですと「温暖化すると南極の氷が融ける」っていうのは「科学的事実」ではありません。しかし、“日本の空気的事実には一致してる”んですね。
だから事実に基づいてないという、この前の私の、なんか「空気→利害(→事実)」という矢印も良かったんですが。もう一個進めますとね、どうもその人たちは、事実認識自体が違うんじゃないか、つまり「空気的事実を事実として取り扱う」、そういう仮想的な時代に入ったんではないかと、まぁいうふうに思います。
えー、これがですね、現在日本を大きな混乱に陥れ、かつ訳が分からなくなってしまっている。普通の人は…生活をしてる人はですね、科学的事実を基に生活をしてますから。えー、テレビでNHKや評論家が空気的事実を言ってもですね、なんか分からなくなっちゃうんですね。それが実は、マスコミが信用が無くなったということでもあるし、政府も実は空気的事実を言ってますのでね。
そうすっと、まぁ、「空気的事実という仮想的なものを持ち出した社会というのが、ほんとに発展性のある社会になるのか?」、ということも少し考えてみなければいけない時代になったと、こんなふうに思いました。
(文字起こし by danielle)