「学問」と「学説」・・・副流煙と野菜に思う (2/14)
タバコのことをブログに書き始めて、今回、初めて「感情的ではない反論」を多く寄せていただきました。次回は反論を十分考慮して副流煙のことを書きたいと思います。今、準備中です。
また、野菜についてもいろいろなご意見をいただきました。これも、前進しそうです。
ところで、私のブログの書き方に不十分な点があることに気がつきました。それは「学問」、「学説」、「知」などを少し曖昧に使っていたことです。私が今まで「学問」と言って来たのは広辞苑などの広く用いられる定義で、「確実な理論やデータで体系化された知識と方法」であり、「学説」は「学問的手法である結論が得られたものだが、まだ学問としては認められていないもの」で、「学問としての知」とは「学問として体系化された人類に財産としての知」という感じだった。
ところが、「学説は学問の中に入るのか?」と言うと、一般的な受け取り方であれば、入るような気がする。というのは、実は「確実な理論やデータで体系化された知識や方法」を学問とすると「学説」はまだ「学問を取り扱う学会などで広く認められていない段階」のものがあるので、「学問になりかけている学問の仲間」となってしまうからである。
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たとえば、ガリレオが「地動説」を唱えたとき、「天動説」が学問としては主力であったから、「天動説」が学問で、「地動説」は学説だった。地動説は「科学的手法を用いて厳密に証明されていた」から、その意味では学問だったが、宗教家ばかりではなく当時の天文科学者もただちには「地動説」を認めなかった。
そのうち、地動説と天動説が同じぐらいの認知度になると、2つの学説と呼べるようになり、現在では「地動説」は学問であり、「天動説」は歴史的に存在した間違った学問であったことが明らかになっている。
「学者」というのは「学問を扱う専門家」を言うとされているので、学者は「体系化された学問」を知っており、「それと違うか同じかは別にして自らの学説」を持っている場合がある人ということになるだろう。
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学者が学者として直接、社会と関わることはそれほど無かった。時に、啓蒙家として「体系化された学問を社会に伝える」ということはあっても、自らの学説だけをそのまま社会に伝えても混乱を呼ぶばかりだからである(混乱を与えることが良い悪いではなく、混乱するという事実は間違いない)。
考えてみると、私は学者だからと思うけれど、学説が直接、社会に発信されるときに抵抗するような気がする。たとえば「リサイクルが資源を節約できる」というのは「資源学、熱力学(エントロピー)、分離工学」などと真っ向から対立する新概念なので、私は強く抵抗した。
自らの計算結果が「リサイクルは資源を浪費する」というものだったので、余計に激しく反論したのだが、私の呼びかけは「学者の皆さん、これまでの学問と反することだから、これまでの学問を否定してください」と言った。私は学者なので、学問的な論理と方法にもとづく論文は理解でいるはずだが、リサイクルが資源を節約できるという論文は理解できなかった。
被曝も同じである。これまでの「学問」では「もっとも確実と考えられる被曝の被害の防止方法は1年1ミリを限度とすることだ」という定説があり、各国がそれに従っている。学説としては1年20ミリもあるが、それは学説であり、いつの日か学者の間でそれが定説になるかも知れないが、今はそうではない。
その時に、社会に直接「学問」に反することを「その学問に携わる人(たとえば放射線に関係する学者)」が自らの学説だからと言って学説を社会に直接、言いうるのか? または、社会的に学問の決定に基づいて決まっている法律に反することを国民に勧めることができるのか?という疑問を呈しているのが私である。
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ところで、副流煙について従来の学問があったかというと、これは難しい。これまでの学問では「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中に猛毒なものは含まれていない」とされていた(正しかったかどうかは別である)。これに対して副流煙が健康に著しく影響を与えるということになると(正しいかも知れない)、「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中でも特殊な植物の場合は猛毒物質を含むことがある。たとえばタバコの葉である」と修正する必要がある。
そのように学問が変わるとすると、一般の植物の幹や葉の成分とタバコの成分の比較、それが燃焼したときにできる物質の同定と定量などが必要である。
でも、メールをいただいた方の反論を読むと、このような学問を問題にしているのではなく、「煙のほとんどない社会では、煙は不快である。もしくは病気の原因になりうる」ということのように思う。つまり、副流煙の是非は学問の問題では無く、社会の変化に伴う容認性の問題の様に感じられる。
この種の問題に、スギの花粉による花粉症、清潔な環境下におけるアトピー、臭いの少ない街角における汚穢回収などがあり、これらは社会問題としてとらえるべきであろう。
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次に野菜と健康の問題だが、野菜は健康に良いという「学説」は多くある。また、野菜をとることによって健康になったり、病気が治ったりする人も多数おられる。だから「野菜をとると健康になる」という可能性はあるが、同時に「野菜を増やすと情緒不安定になる」とか、さらには「野菜を多く食べると成績が悪くなる」などの可能性は残る。
野菜を取ると健康に良いかどうかは主として「コホート研究」という手法が採られる。これは大勢の人を2群などにわけて、その結果を整理する疫学的な方法で、広く学問の一つの手法として認められている。しかし、この方法には注意すべき点がある。それは、第一に「何かを変数にしたときに、それ以外の変数が同時に変わっていないか」ということ、第二に「結果の整理が特定の影響だけに限られていないか」ということである。
かつて「ベッドに寝ている時間が長いほど寿命が短い」というコホート研究の結果があったが、後に「ベッドで長く寝ている人には病人が多い」ということで否定され、「病人を除いた研究」が行われている。
このような極端な例は別にしても、人間が生活するパターンは多種多様であり、多数の人間を調べたからある結果だけ取り出せるという手法はどのような制限をおかなければならないのか、まだ結論は出ていないように思う。
もう一つは「野菜を食べると健康になるか」ということで、確かにその時の「健康」というのが「高血圧」を指標にすると改善されているかも知れないが、同時に「頭が悪くなる(血の巡り)」とか、「情緒不安定になる」という欠点があるかも知れない。私が学生に注意することだが「自分が考えている因果関係に囚われていないか?」というのは学問ではもっとも大切なことと思う。
また、個人差をどのように考えるかもある。たとえば特定の野菜の中に含まれる元素を取りにくい体質の人が野菜を食べると体調が良くなるということはあっても、その元素を取り込みやすい人にとっては野菜は害になるからだ。
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そんなことを言っていたらキリがないと思われるかも知れないが、実は社会の片隅で苦しんでいる人がでる一つの原因として、あまりに単純な現象を社会全体のように複雑な対象に無批判に使うということがある。
「野菜を食べると健康になる人がいる、もしくは多い」、「タバコの煙で障害を起こす人がいる、もしくは多い」と言うことはある。しかし、「だから野菜を食べろ」とか「副流煙に接しなくてもタバコを吸うこと自体が悪い」ということになるのか、そこをこれからも慎重に検討していきたいと思う。
(平成24年2月14日)
ええとあの、多少の反論といいますか、かなりのバッシングを受けるかなと思ったんですが、ま、このですね「知の侮辱」ということには必要だと思いましたので、実は副流煙のタバコの問題をですね、一番バッシングを受けやすいタバコの問題と、野菜を食べたら健康になるか、っていう問題に挑戦してみました。
えー、そうしましたらですね。今回私のブログでは初めてですね、タバコの副流煙に対して感情的ではない反論をですね、いただきました。良かったですね。て言うのはですね、感情的ではない反論ですから、「あぁ、なるほど!」と思うことがずいぶんありました。私ももちろん、副流煙を嫌がる人の気持ちが分かってたはずですけどね。だけどやっぱり、その当人からきちっとしたやっぱり説明を聞くというのはですね、大変に良いことですね。で、この2つはまた別の機会に、その、科学的に考えてみたいと思いますが。
それを通じてですね、私のブログの書き方にもう少し改善の点があるなと思いました。それはですね、「学問」、「学説」、「知」といったことをですね、多少曖昧だったかなと思いますね。私が今まで「学問」と言ってきたのは、広辞苑なんかで広く用いられる定義で、その点では問題がないんですが、「確実な理論やデータで体系化された知識と方法」、とまぁこうなるわけですね。
で、その代わり「学説」というのはですね、「学問的手法でやったんだけど、まだ学問としては認められてない」ということですね。人によって違う。だから「学問としての知」っていうのは財産なんですけど、まだ学説は財産になってないんですよ、間違いがありますからね。間違いを財産って言うわけにはいきませんので。
で、学説は学問の中に入るのかっていうと、これがちょっとあの曖昧です。私は、学問を厳密に話しておりました。ええと、実はですね、「確実な理論やデータで体系化された知識や方法」を学問っていうふうにするとですね、これ広辞苑なんかの普通の定義ですけど。そうしますと、「学説」は、まだ「学問の仲間ではないが学問になりかけてる」っていうことですね。
例えば、分かりやすくガリレオで説明しますと、ガリレオは地球が動いてるとこう言ったわけですね、つまり「地動説」です。このときは「天動説」が一応学問としては主力でした。ですから、「天動説」がガリレオが出るまでは学問で、「地動説」は学説だったわけですね。で、地動説も“科学的手法を用いて厳密に証明されていた”んですが、体系化されたみんなが認めたものではなかったわけですね。えー、だけどもだんだん時間が経つと、地動説と天動説の勢力は同じぐらいになって、2つとも学説ということになり、今では「地動説」は学問ですね。つまり、地球が太陽の周り回ってることはみんなが認めてるわけです。「天動説」は歴史的に間違った学問だった、とまぁこういう位置付けになってるわけですね。
ですから、そいで「学者」というのはですね、「学問を扱う専門家」でありますので、やっぱり学者は「体系化された学問」を知っているわけですね。学説があってもいいんですけど。それでですね、問題はその次ですが。学者が学者として直接社会と関わることっていうのは、近代社会ができてからあまりなかったんです。現代は非常に多いんですね。啓蒙家っていうのがあって、これはあの学者のような人が「体系化された学問を社会に伝える」という役割を果たしたわけです。
しかし最近のようにですね、自分の学説だけを伝える人っていうのはですね、まぁ混乱を呼ぶだけなんです。混乱を呼んだからつって悪いわけじゃないんですよ、今、良い悪いじゃないんですよ。混乱するということが事実となって生まれる、ということなんですね。
私がよく言う、例えばあるお医者さんが「風邪を引いたら、手首を切ったほうが良い」という説を唱えてるとします。しかし、それはやっちゃいけないんです。何でやっちゃいけないかっていうと、それは「学問ではない」からなんですね。「説」、「学説」だからなんです。だから、ある人が安楽死が良いと思ってもやっちゃいけない。これもやっぱり「学説」だからですね。実はね、私はこう、学者だからそう思うのかもしれないですけども、学説が直接社会に発信されたときに、カチンとくる気がするんですよ。
例えば「リサイクルが資源を節約できる」とこういう話になるとですね、「いや、それは資源学、熱力学(エントロピー)、分離工学などと真っ向から対立するじゃないか」と。そいで、僕は抵抗するわけですよ。対立したから、いいけど説明はして下さい、と。リサイクルが資源の節約になるということを説明して下さい、とこういうふうに僕は反撃したわけですね。もちろん自分の結果も「リサイクルは資源を浪費する」っていうことなので、余計に激しくやった。
つまり私があのとき呼びかけた、「リサイクルしてはいけない」って言う形で呼びかけたのは、「学者の皆さん、リサイクルしたら資源が節約できるって、今までの学問と違うじゃないですか」と。だったら、学者だったらまず、その学問を否定してからにして下さいと、そういうことだったわけですね。
えー、やっぱりそれはもう、全然理解できませんね、あのリサイクルが資源を節約できるなんていう論文は。それは理解できませんよ、その論文の中でエントロピーがどうか、分離工学がどうかって書いてないんですからね。それはやっぱりダメですよ。「私が計算したら、リサイクルが資源を節約できた」なんて、そんなことOKすることできないですよ。学者っていうのは、学問体系の中にいますからね、だから保守的でいいって言ってんじゃないですよ。新しいものはどんどん取り入れるんですが、昔の学問、今までの学問をまったく論評しないってやつはダメなんです。
被曝でもそうですね、今までの「学問」では被曝と健康の関係では「最も確実と考えられる被曝の限度は1年1ミリ」なんですよ。これが一応学問なんです、今のところ、まだ柔らかいけど。各国がそれに従ってるわけです。学説としては1年20ミリもあり、1年0.1ミリもあるんですけど。それはいつの日か、そっちが学問になるかもしれませんが、今はそうではないんですね。
そうすると、そのときに社会に直接、学問に反することを学者が発信はできない、っていうのが僕の考えなんですよ、ええ。それはダメだ、と。特に今度の場合、法律にも決まってるわけですからね。法律違反を学者が勧めるっていうのはあんまり感心したもんじゃない、ということですね。やっぱり学者は法律を変えるように、働きかける方になんなきゃいけない。
で、この副流煙についてはですね。これ実は、従来の学問があったのかというとですね、無かったんじゃないかと思うんです。つまりですね、この副流煙の問題の従来の学問では、「植物の幹や葉を燃やして出る煙の中に、猛毒のものは含まれていない」ということだったんです。正しいかどうか別ですよ。これは、学問としては存在しました。つまり、囲炉裏のそばに人がいたら死ぬとかですね、そういうんじゃなかったんですね。
煙たいけど、大丈夫だっていうんで、囲炉裏っていうのは今でもですね、割合と良い物として使われてますよ。昔の生活を体験できるとかね。囲炉裏のそばで、おばあちゃんがおじいちゃんがいろいろ炊いてくれて、おばあちゃんが話をして、そこに子どもが聞くなんていうのは、別に微笑ましい風景なんですよ。
ということになると、副流煙っていうのは、タバコの葉を燃やしたやつですからね。これが影響を与えるってことになると、「植物の幹や葉を燃やして出る煙の中でも特殊な植物の場合は、猛毒物質を含むことがある。その特殊な植物の一つにタバコがある」、とこれはいいかもしれません。
で、そうなりますとね、例えば囲炉裏に焚くものは限定される。例えば、樫の木であるとか、杉でなくちゃダメだ、杉はダメだとかですね、そういうふうになるはずですね。そうなるためには、一般の今まで囲炉裏なんかで燃やしていた成分と、タバコの成分の比較表が出てこなきゃいけないんです。「そんなの当たり前じゃないか、ニコチンが入ってるから」って。いや、そういうことじゃないんですね。学問はその「当たり前だ」じゃなくて、事実を…比較表がなきゃいけないんですよ。で、それがこうだ、ということ言わなきゃいけないですね。
メールを頂いて、非常にいいメールが多かったんです。これほんとにね、メールいただいた人にごまをするんじゃなくて、とても私、参考になりましたが。しかし、学問を問題にしてるのはありませんでした。「煙のほとんどない現在の社会では、煙は不快である。もしくは病気の原因になり得る」ということでしたね。
もちろん病気になる人もいます、感度が高くて。で、これはですね、学問の問題じゃないんですね、これ。実は、副流煙で肺ガンが増えるからいけない、とこういうもんですから私、「知の侮辱」で取り上げたんですけども。実は議論されてるのはそうじゃなくて、社会の変化に伴う、社会の容認性の問題のように思いました。これについてはまた書きます。
つまりですね、スギの花粉による花粉症とか、清潔な環境下におけるアトピーの発生とかですね、それからほとんど臭いの無い街角でトイレの汚穢(おわい)を回収するバキュームカーなんかが許されなくなる。こういったものとですね、ほとんど同じ性格ではないか、というふうな感じがしましたね。
で、野菜と健康の問題ですが。実はこれでずいぶん、いろんな人から貰いました。それは全部、「学説」でした。つまり、学問的に野菜が健康に良いという証明は、今んとこ無いんですね。ただ、学説はいっぱいあるんですね。「野菜を摂ることによって健康になる」のは、現実にいるんですよ。もちろん病気が治ったりする人も、多数おられるんですね。
病気が治ったりする人があるから、野菜は健康に良いというんじゃないんですよ。例えばですね、同時に「野菜を食べると情緒不安定になる」とか、「野菜を食べると頭が悪くなって、成績悪くなる」なんていう可能性があるんですね。ですから研究というのはあの、まどろっこしいように見えますけど、それ一回きちっと決まれば、それは非常に力になるから学問なんですね。
野菜を摂ると健康に良いかどうかって、ほとんど「コホート研究」っていう手法を採られてるんです。これはですね、ある大勢の人を2つの群に分けて、一つは野菜をうんと食べてる人、一つは野菜を食べない人に分けてやるんですけども、その場合に問題点が2つあるんですね。これは良く知られてはいるんですね。つまり野菜だけに注目されるのか? 野菜を多く食べる人は、普段から健康に気をつけてる人とかね、そういうのありますから。それから今度、結果の整理についても、自分は野菜を摂ったような気にしてるけども、ほんとは違うかもしれないですね。
例えば、かつてこういうことがありました。「ベッドに長く寝ている人は、寿命が短い」っていう研究がありました。これ有名な研究でした。しかし後にですね、どうも「ベッドで長く寝てる人は病人が多い」ってことでですね、この研究は否定されましたね。その後、「病人を除いてベッドに寝ている時間を見るっていう研究」が行われました。
ま、これは極端な場合ですけども、人間の生活っていうのはほんとに多種多様ですからね。あることをほんとに調べて、それになるかってことですよね。えー、「野菜を食べると健康になるか」という健康というのが、「高血圧」を問題にしてんのか、「頭の(血の)巡り」なのか、「情緒不安定」なのか、ま、問題なんですね。
それからもう一つは、私が学生にいつも注意してることですけども、「自分が考えてる因果関係に囚われていないのか?」ってことですね。それからもう一つは、個人差がどのくらいあるかってことですね。例えば、特定の野菜の中に含まれる必要な元素を摂りにくい人っていうのは、野菜を食べた方がいいでしょう。しかし摂り込みやすい人にとっては、食べ過ぎになって害になるかもしれません。
まぁ、でもこんなこと言いますと、きりがないように思うかもしれませんが。実は「学問」というものがはっきり分かっていない、もしくは「知の侮辱」ということがどうかはっきり分かってないことによってですね、非常に苦しんでる人もいるんですよ。もちろんタバコの煙とか野菜で苦しんでる人もいれば、逆の人もいるんですね。ですから、ま、あまり単純に現象をですね、評価するっていうのは問題である、と。
「野菜を食べると健康になる人はいるし、多い」ですね、もうそれは間違いありません。それから「タバコの煙で障害を起こす人もいるし、もしくは多い」んです、これも間違いありません。だから、「学問的に野菜を食べろと言えるのか?」 もしくは、「副流煙に接していないのに、タバコを吸うことは良くないと言えるのか?」、ここですね。
まぁ、これ言えるんですよ。あの、どうして言えるかって言ったら、「タバコを吸ってる人がいるとポイ捨てするから」とか、「火災の影響受けるから」、これいいんです。絶対これ正しいですね、タバコを排斥するのには。吸いがらは汚いしですね、タバコを吸えば火災の危険性がありますから、これ正しいんですよ。だけども、それをですね、健康に悪いからって別の理由を持ち出すのは、やっぱこれ良くないんですね。
それから、「私たちは副流煙に接しなくても、タバコ嫌だ」って言う人が多かったですよ、メールでは。じゃあ、副流煙とは関係ないんだから、タバコを吸う人をなんか「副流煙じゃダメだから」つって、かごみたいなところに入れて吸わせてもダメなんですよね。ほんとに我々は、どういう理由でタバコを嫌だといってるのかっていうことに対して、かなり正直にならないといけない、という気がしました。まぁこれは途中なんで一応、多くの人にメールを頂いて私の考えも格段に進歩しましたので、お礼の意味を含めてここに載せました。
(文字起こし by danielle)