人間の未来は明るいのになぜ暗く感じられるのか?(1) 鴨長明 (2/1)
東北大震災、福島原発事故、政府の不誠実、そして東大の地震予報などが続き、人間の未来に不安を持つ人が多くおられます。そして、「このまま文明が進んだら、環境がすっかり悪くなってしまうのではないか?」とか、「豊かな生活を送っていたら資源が無くなり、神様から罰を受けるのではないか」と言われたことがありました。
確かに、1970年代前半にMITのメドウスが「成長の限界」という本を出版し、21世紀には地球環境がすっかり破壊され、人類の文明の成長は崩壊で終わるという考え方が世界を覆ったのです.
このメドウスの結論が間違っていたことは、事実でもまた論理でもハッキリしたことはこのブログでも書きましたが、世界中の人が錯覚した第一の原因は「人間の頭脳の構造」によっていたのです。
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紫式部の時代といっても、その少し後だが、鴨長明という人が有名な「方丈記」を書いている.その書き出しは有名な「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」で始まり、最後には「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」という歌で終わっています.
全編、どちらかというと災害、大火事、戦争などの描写で覆われていて、「世も末だ」という感じです.国語の先生に怒られそうですが、私の印象は「やれやれ、鴨長明も自分の頭が良いと思ったのだな」という感想を持ちます.こんなことを書くと国語の点数は悪くなるでしょうね.
そういえば、学校に行っていた頃、国語の教科書に載っている文章を読んで、感想を書くことが多かったのですが、不思議なことにその感想には「模範解答」があって、よい子の解答をしなければ点数が悪いというしきたりがありました。
「方丈記」ではおそらく「世のはかなさが良く表現されている」とか、「貴族から武家支配に変わっていく日本の中で・・・」などと論評すると良い点数がつき、「鴨長明は人間の頭の欠陥に気がついていない」などと書いたら怒られるでしょう.(鴨長明ファンからのバッシングが予想されます.)
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もし、鴨長明が時間をジャンプ(ワープ)して5年間、六本木の高級マンションに住み、なに不自由なく美味しいものを食べ、冷暖房の効いた部屋でゆっくり過ごし、時には美しい海岸線にいって保養する生活をした後に、再び「方丈」で過ごしたら、どのように書くでしょうか?
安元の大火、治承の竜巻、養和の飢饉、元歴の地震とわずか10年ほどの間に、4つも大災害が起きたのだから悲観的になるのも当然だと言うのは評価は甘いのではないか、あまりにも視野が狭いのではないかと思うのです.
日本には富士山、磐梯山、浅間山、阿蘇山など山の形が変わるほどの巨大な噴火があり多くの犠牲者を出していましたし、その一部は彼の時代にも伝承として伝えられています.また、縄文時代には鹿児島沖に巨大な噴火があり、今の鹿児島県から九州南部一帯が火砕流で全滅した経験も日本人は持っています.
日本列島のような地震、津波、噴火などが頻発するところに住んでいれば、むしろそんなことには動揺せず、長い目で自然というものを見る力はついているはずなのにあまりに近視眼的と言えるでしょう.
六本木から帰った鴨長明は、まさか「今が末世」とは言えず、1000年後は華やかな生活が待っていると書いたかも知れません。
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「自分の考えを自分自身が客観的に見る」ということは、「自分の頭で考えることの限界」について頭を巡らしておくことと思います. たとえば、自分の考えは自分が見たり、聞いたり、経験したりしたことによって作られているということ、ほぼ同じことを見聞き経験しても意見の違う人がいること、自分が生きている時代より1000年も前の人は自分と違う世界観、人生観を持っていたことなどを考えると、「自分が正しいと考えたことは間違っている」という確信があるはずです。
ただ、その中でも私たちがこれまで経験してきたことが、「状況さえ変わらなければ」、「続く可能性がある」ということは言えるのではないかと私は考えています.
そのうちの一つに、「太古の昔に比較すると、人間の一生は良くなっている」と言うことです。古代日本の平均寿命は20歳ぐらい、江戸時代には30歳から40歳、今から約100年前の日本が男女とも43歳です。
昔は、生活は苦しく、肉体労働でへとへとになった肉体は40を超えると平均的にはぼろぼろになったのです。もちろん、結核などで夭折する人も多く、哀しい人生でした.それでも人間は幸福感を持って人生を送っていたのですが、「平均寿命が20歳と80歳とどちらを選ぶ?」、「盲腸になったら呻いて死ぬ社会と、手術ができる社会のどっちが良い?」と聞けば、その答えは多くの人が同じでしょう.
私は、「なぜ、人間は良くなっているのか?」という理由として、「一人一人の人が今日より明日を良くしようとしているから」と答えています.もともと政府や国家の力などはあまり大したことはない、悪いことだけしているという考えの私ですから、「社会を良くしてきた」のは、そこに住む一人一人の人の改善の心と思っているのです.
政府はできるだけ影に隠れてくれということになるのですが、どうも最近では政府が要らぬお節介をするのが気になります。
(平成24年2月1日)
--------ここから音声内容--------
えー、今日はまぁ、非常にあの、趣の変わったことを少し書いたんですけども。東北大震災があったり、福島原発事故があって、政府が不誠実で、そして続いて東大の地震予報なんか続きましてですね。ま、とにかくこれだけ恐怖が続いたり、もうガッカリすることが多いとですね、人間の未来に不安をもって前進的なことができなくなるっていう感じがしますね。もちろんあの、「このまま文明が進んだら、環境がすっかり悪くなってしまう」とか、「豊かな生活を送ってたら資源がなくなって、そういうことは神様から罰を受けるんではないか」とまぁいうことを、まぁ今から40年ぐらい前に言われたわけですね。
1970年にはMIT(マサチューセッツ工科大学)のメドウスが「成長の限界」という本を出して、21世紀に環境はすっかり破壊されてしまう、もう人類の文明の成長というものは終わるんだと、崩壊するんだと、まぁ言うことになったわけですが。このメドウスの結論が間違ってたことは、事実として証明されてるわけですね。地球温暖化、1988年ハンセンの証言も、おそらく間違っていると思うんですね。こういった、次々と悲観的なものが出てくる時代なんでしょうけども、これはまぁ私がいつも考えてるのは、人間の頭の欠陥みたいなものだと思うんですよね。
例えば、少しのんびりと考えてみますと、紫式部の時代、まぁ1000年ぐらい前・・・ちょっとまぁ200年ぐらい後なんですが、鴨長明という非常に有名な人が「方丈記」という、「三大随筆」と言われるものを書きますよね。そこにまぁ、有名な書き出しがあります。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」と。これをまぁ、中学校ぐらいで勉強するわけですね。最後まで悲観的な文章に貫かれております。ま、「世も末だ」という感じですが。
そういう鴨長明の、この「方丈記」についてですね、「やれやれ、鴨長明も自分が頭が良いと思ったんだな」なんて感想を書くとですね、おそらく中学時代、国語の先生に悪い点数付けられるでしょうね。やっぱ国語を読んだら、どういうふうなこと言わなきゃいけないか、って言ったら「世のはかなさがよく表現されてる」とか、「この世というのは移り行くものだ」とか、そいから「鴨長明の時代は、貴族社会から武士支配に変わっていく日本の中で、非常に不安な時代であった」とか何とかいうことを書けば、まぁだいたい満点というか良い点数が付くんでしょうけど。「鴨長明は、人間の頭の特徴に気付かずに妄想を感じている」なんてこと書いたらですね、まぁあの、国語の先生ならずとも鴨長明ファンからもバッシングが予想されるわけですね。
しかし、鴨長明のこの「方丈記」っていうのはですね、1000年2000年経って、もうこれ人類の将来を言ってるんですからね。人類の将来っていうのは100年で終わらないわけですから。鴨長明が現代の六本木の高級マンションに住んで、何不自由なく美味しいものを食べて、冷暖房の効いた部屋でゆっくり過ごして、時には美しい海岸線に行って保養するという生活をしたとしたら、いったい「方丈」に帰ってどう思うでしょうかね?
彼は、安元(あんげん)の大火、治承(じしょう)の竜巻、養和(ようわ)の飢饉、元暦(げんれき)の地震と、この1100年の後半はですね、大変な災害が10年ぐらいの間に4つもあったわけですね。多分、僕の記憶では1170年ぐらいから1180年ぐらいですから、ちょうど今から1000年ぐらい前だったと思うんですけども、そういうことが続いたわけですね。
しかし、それは鴨長明がまぁ50歳とかそのぐらいしか、50年間ぐらい(しか)生きていないからであって、富士山の爆発、磐梯山、浅間山、阿蘇山なんかはですね、山の形が残ってないほどドカーン!といったわけですね。その前では、鹿児島辺りのところに縄文時代、ドカーン!といってですね、九州の南半分全部が全滅したという記録もあるわけです。
日本列島のように、まぁ地震とか津波とか噴火っていうのがいつもあるようなところではですね、それはもうしょうがないわけですね。えー、それをですね、どういうふうに見るかっていうことですね。
六本木から帰った鴨長明はですね、1000年後に行ったわけですから、「今が末世」とは言えないでしょうね。私はですね、鴨長明の文学的価値というのをこれちょっと今、論じようとしてるんじゃないんですね。文学というのもですね、ほんとにそんなに短期間のことで人間というのを論じられるのかな、と思ったりもするんですね。
まぁ私はですね、科学者でもあるかもしれませんから、「自分の考えを自分自身が客観的に見る」ということについては、「自分の頭で考える限界があるな」というふうにいつも思うわけですね。当然、自分の考えの中には見たり聞いたり経験したことによって、形成されてる。自分が生きたときよりか1000年後の世界っていうのはなかなかですね、見ることができないわけですね。
だから私はまぁ、研究生活を通じて、「自分が正しいと考えたことは間違ってんじゃないか」という、そういう確信があるというかですね、あるわけですね。ただまぁ、「状況さえ変わらなければ」…これはメドウスの仮定ですね、「続く可能性がある」っていうことですね。そういう点から見て、私が将来を見るときの一番重要なことって言うのは、太古の昔に比べると、どうも良くなってんじゃないかって言うことなんですね。
ま、寿命だけを言うわけじゃないですが、古代日本っていうのはだいたい20歳ぐらいで平均は死にました。江戸時代は30歳から40歳ぐらい、今から100年前の1920年、43歳ですからね平均寿命が。それはあの平均寿命が病気で短くなったってだけじゃないんですよ。もちろん結核とかそういうのあるんですけど。肉体労働でへとへとになって、まぁ寒さ暑さでもう苦しんで、そして死んでいくわけですね。
で、まぁそういう時代も良かったかもしれません。もちろん人間っていうのは常に幸福感を持って人生を送れるんですけども、「平均寿命が20歳と80歳どっちを選びますか?」とかですね、「盲腸になったらそのまま呻いて死ぬ、お腹が腐ってですね死ぬ社会と、簡単に手術ができて一日で帰れるなんていう社会と、どっちが良いですか?」つったらですね、ま、私なら80歳を選んで、盲腸の手術ができる社会を選びます。
ということは、人間社会が良くなってるってことなんですね。で、この良くなってるのは、「なぜ、良くなってるのか?」っていうのを時々考えるわけです。私の結論はですね、「一人一人の人が今日より明日を良くしようとしてるので、良くなるんだろう」と思うんですね。むしろ個人は良くしようと思ってるんだけども、政府や国家はですね、なかなか難しいですね。えーまぁ、私はですね、どちらかと言うと個人の努力を足引っ張ってるように思います。ま、戦争を開始したりですね、人の国を植民地にしたり、まぁいろんなことやるんです。
えー、今度もですね、原発をまだ続けようとしたりですね。政府とかこの・・・これは旧約聖書なんかかから、人間の欠点として言われてますけども、「どうしても人間は一人一人は善人でも、1万人とか10万人とかいう規模になると、どうしても人間の悪いとこが出てくる」。これは頭脳が発達した最初の生物としては、仕方ないんじゃないかと思うんですが。
そういった人間の欠点を直すためにはですね、まぁ私は、政府ができるだけ影に隠れるということが重要かなと。最近はもう何でもですね、政府が出てきましてですね。「もうタバコを吸うな」とか、副流煙はこれは問題は別にしましてね、個人の健康に関わること、もしくは個人の人生観に関わることまで、何か自分の方が優れてると思ってるんですかね? ちょっと、そこよく分かんないんですけど、口を出すということで。ええとまぁ、どういうふうになんのかな?と思いますね。
ええ、まぁ、私このシリーズ少し続けたいと思うんですね。ええと、人間は良くなるわけだけども、なぜ悪いことだらけで良くなるのか、と。そういうことを少し考えてみたいということで、少しこのことを書きました。
(文字起こし by danielle)