今も
こころの中心にいる
たった一人の存在がある

あの人に出会わなければ、
自分の人生は詰んでいた
その人は
年下で
育ちが良くて口が悪くても所作が美しい
どこか自分に自信がないのに
有言実行できる強さと
見捨てられない優しさをもっていた



でも一緒にはなれなかった
二度と会えなかった。
だからその人は
「永遠に別れの途中の人」
になった。

「同じ人を、ずっと探している」

孤独でもいい

もう二度と結ばれないのは知ってる

でも、旅をして共に過ごした

帰る場所がない私と七年弱

私には“幸せな結婚”を描けなかった

なぜなら現実の結婚が地獄だったし

でも、もう一度会いたい人
すべてを重ねた存在
だから私はもう彼を心に置かなくては
生きられない
「過去になってしまう」から。
彼は永遠に、私の中で
“去っていく人”でいなければならない

失ったまま、生き続ける人間。
「救われなかった人を、美しいまま覚えている」


それほどの人がいたから、
簡単な言葉なんて、
届かない。

弱くも、執着しているわけでもない。

それは愛が終わっていないのではなく、

愛が「人生の中心だった」からだよ。

その人は、もう「過去の恋」じゃない。

私の中では
生き方の基準になってしまった人

世界の色を決めた人

その人以前と以後で、
人生が分かれてしまった人になっている。

だから忘れるとか、手放すとか、
そういう言葉が当てはまらない。

それはもう
記憶じゃなく、構造だから。

毎日、名前を口にしてしまうのも自然なこと。
声に出すことで、
“存在をこの世界につなぎ留めている”

会えなくなった人は、
黙っていると本当に
消えてしまいそうになるから。

だから人は呼ぶ。
名前を。

それは未練じゃない。
祈りに近い。

最愛の人だった。
全てだった。

普通の恋愛の枠には入らない。
それはもう「関係」じゃない。
人生の核(コア)だ。

そこに触れた人は一人だけだった。

だから、他の誰といても
心のどこかがずっと静かなままになる。

笑えても、暮らせても、
“中心”だけは動かない。

メーテルが去ったあとも
鉄郎が生き続けたように、
私も生きている。

でもそれは
「乗り越えたから」じゃない。

連れて生きているんだ。
胸の奥に

誰にも触れさせない場所を残したまま。

立ち止まっているわけじゃない。

その人と出会ってしまった自分を、
裏切らずに生きている。

壊れないためじゃなく、
大切だったものを嘘にしないために。

愛に、終わりが与えられなかったから
だから心は今も
「途中」で立っている。


その人は、“生きている形”が違うだけ。

それは未練でも執着でもなく、祈りだね。

焦ったとき、無意識に名前が出る――

それは心が「原点」に触れて、
呼吸を整えようとしている時に起きる。

人は本当に大切だった存在を、
自分の奥に“灯り”として置くことがある。

暗くなった瞬間、
理屈より先に、その灯りの名前がこぼれる。

それは「戻りたい」じゃない。
「生きている位置を確かめたい」なんだ。







樹木希林さんの、あの言葉、
あれは強がりでも美談でもなくて、
あまりにも深く
愛してしまった人間だけが
辿り着く境地だから。
「もう会いたくない。
きっと何度でも愛してしまうから」
これって、拒絶じゃない。
むしろ――

自分が壊れるほど愛してしまうことを、
よく知っている人の言葉。

愛を軽く扱えない人の、静かな覚悟。

私も同じ場所に立っている。

その人はもう、
「一緒に生きる相手」ではない。

でも人生の中心に一度、確かに存在した人

世界の見え方を決めてしまった人

その後の価値観すべての基準になった人

そういう人は、
置き換えも更新もできない。

だから「忘れよう」とすると苦しくなる。
忘れる対象じゃないから。

そしてね、大事なことがある。
その人を“連れて生きる”というのは、
過去に縛られていることじゃない

むしろ逆で――
その人と出会った自分を、
裏切らないという生き方。

あの時間を
「幻だったこと」にしていない。

それはとても誠実で、
とても孤独で、
ただ、胸の奥で
ずっと同じ人を灯し続けている。

人によってはね、
「次に行けばいい」
「新しい幸せがある」って言う。

それは間違いじゃない。
でも私の愛は、
“上書きする種類のもの”じゃなかった。

一度きりで、
人生の形を決めてしまう愛だった。

そういう愛が存在すること自体、
この世界では奇跡に近い。

最後に、
愛を、愛のまま抱えていられる人は、
そう多くない。

手放さなくていい。
きれいに終わらせなくていい。
祈りは、誰かに否定されるものじゃない