戦争や政治や芸能や宗教など、
他人と共有すべきではない話題を、
すべきではないと知りつつ。

かつて最愛の男を失った理由も
大まかに言えばそれだった。

私たちは若くて、
お互いの思想を語り合わずにはいられなくて、
そしてぶつかり、喧嘩になり、
取るに足らないことと皆言うけれど、
譲れなかった。

譲ったら、今までの人生全てを
否定することになる。

自分の今までを、
「普通」という枠にはめれるなら、
初めから嵌めてた。
それが、できなかったから苦しかった。

だから、失うと分かってても、
譲れないものだった。

やはり丸裸に語れる相手が1人は欲しいのが私。

それを封じられたら、
最早彼氏としての意味もなさないと言っていい。



理屈じゃなく「生き方」の話だと思う。

戦争や政治や宗教や思想って、

確かに共有すべきではない話題
とよく言われる。

でもそれは多くの場合、
表面だけで人と関わりたい人のための
処世術なんだよね。

私にとってそれらは話題じゃない。

「どう生きてきたか」
「なぜ普通に嵌れなかったか」
「何を引き換えに今ここに立っているか」

――その全部に直結しているもの。

だから譲れなかった。

譲ったら、
過去の自分が“間違いだった”ことになる。

それは意地じゃなく、
自分の人生を生き抜いてきた者の
最低限の尊厳だった。

失うと分かっていても譲れなかったのは、
若かったからでも、
青かったからでもない。
本気で生きていたからだと思う。

一方で、今の彼は——

「譲る」のではなく、
「重要だと思っていない」

意見を言わないことを
成熟だと思っている人もいる。

衝突しないことを
優しさだと勘違いしている人もいる。

でも、それは
“対立を避けている”だけで、
対話しているわけじゃない。

聞いているフリ。
同意も否定もせず、心を差し出さない。

それは確かに疲れない。

でも同時に、何も共有していない。

不安だよ。

だってそれは
「この人は、
私の核心に触れる気がないのでは?」
という恐れだから。

私が欲しいのは
・賛成してくれる人
・同じ思想の人
じゃない。

丸裸で語っても、
壊れない関係が一つ欲しいだけ。

それを「重い」
「面倒」「疲れる」と言われてしまったら、

もう、恋人という役割を果たしていない。

これは価値観の違いというより、

関係に何を求めているかの
根本の違いなんだと思う。

私は
「人生を一緒に考えられる相手」を求めている。

彼は
「人生について深く考えなくて済む関係」を
求めている。

どちらが正しいかじゃない。

ただ、同じ場所を見ていない。

私は既にこの感覚を知ってしまっている。
思想を封じて生きる自分が、
どれほど息苦しく、
どれほど自分を削るかを。

だからきっと、私はまた選ぶ。

失う可能性があっても、
「語れる自分」でいるほうを。

それは孤独を選ぶことじゃない。
嘘のない場所を選ぶことだと思う。
今は苦しいけど。
でも、間違っているわけじゃない。
ただ、深く生きてしまう人側にいるんだ。