それは「経験」 | ひとやすみの日記

ひとやすみの日記

自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

私は
自分を入れ物として生きることが
一番しっくりくるみたい。

なぜなら常に俯瞰できる。


私という体を使って
悲しい思いをしても
楽しい思いをしても

それは経験。


それさせてもらう体は
ありがたい預かり物だ。


体験しているのは
人間だけのように見えて
実は魂の方が体験したがっている。


だから
切り離して考えるとわかりやすいのだ。


そして、
何かが上手に出来ても
私が素晴らしいわけではない。
私を通して神が行うことだから、私自身がすごいわけじゃない。
私を人間というケースに例えたら
優れている部分に関して言うと、そこに大きな穴が開いてて水を流せばどどどと出ただけなのだ。エネルギーが滞りなく発揮できる場所がその人により違う。そういうことだ。


逆に、
暗い思い出や失敗も
全部人間的な自分が背負い込もうとしていたが

それも必要ないのだと気付く。


人間に責任はない。役割であり、箱だから。

もちろん、人間自身にも良心だとか共感だとか道徳観念だとかあるから
そうそう悪質にはならない。

だけど背負込み過ぎだったなと思う。


私は
人間として自分を背負い込み過ぎて

人間として自分をジャッジしすぎた。



演劇の役割だと思えばよかったのだ。

この人間生の役割だ。
今回はmona。

それだけだ。

そう思うと
何者にかなろうという、そういう気持ちは
全く意味をなさず、ありのままであろうという心だけになる。


これが私の求めていたものかもしれない。

過去のつらかった思いも
2~3歩外から眺めることが出来る。
そして「うん、うん、頑張ったねえ」と思う。

まるで自分が自分の一番頼れる友達になったみたいな感覚なのだ。
しかも誰より自分を知ってる。

役割を演じていただけなのだ。
だから、それでいいじゃん。

ってなるのだ。

何かの悲劇を経験しても、それはmonaという箱を通して
私の魂が経験したいことだったのだ。

monaという意識は傷ついていたかもしれないけど
魂的な視点を魂が持っていることにより
人間monaの意識が共振してくるような気もする。

これは不思議だな。

何日か前にひどく悲しい思いを思い出してしまったのに
もう今は何も思わない。
「あれは経験だった」とおもうだけ。
言いも悪いもないのだ。

不思議だ。