私は
自分を入れ物として生きることが
一番しっくりくるみたい。
なぜなら常に俯瞰できる。
私という体を使って
悲しい思いをしても
楽しい思いをしても
それは経験。
それさせてもらう体は
ありがたい預かり物だ。
体験しているのは
人間だけのように見えて
実は魂の方が体験したがっている。
だから
切り離して考えるとわかりやすいのだ。
そして、
何かが上手に出来ても
私が素晴らしいわけではない。
私を通して神が行うことだから、私自身がすごいわけじゃない。
私を人間というケースに例えたら
優れている部分に関して言うと、そこに大きな穴が開いてて水を流せばどどどと出ただけなのだ。エネルギーが滞りなく発揮できる場所がその人により違う。そういうことだ。
逆に、
暗い思い出や失敗も
全部人間的な自分が背負い込もうとしていたが
それも必要ないのだと気付く。
人間に責任はない。役割であり、箱だから。
もちろん、人間自身にも良心だとか共感だとか道徳観念だとかあるから
そうそう悪質にはならない。
だけど背負込み過ぎだったなと思う。
私は
人間として自分を背負い込み過ぎて
人間として自分をジャッジしすぎた。
演劇の役割だと思えばよかったのだ。
この人間生の役割だ。
今回はmona。
それだけだ。
そう思うと
何者にかなろうという、そういう気持ちは
全く意味をなさず、ありのままであろうという心だけになる。
これが私の求めていたものかもしれない。
過去のつらかった思いも
2~3歩外から眺めることが出来る。
そして「うん、うん、頑張ったねえ」と思う。
まるで自分が自分の一番頼れる友達になったみたいな感覚なのだ。
しかも誰より自分を知ってる。
役割を演じていただけなのだ。
だから、それでいいじゃん。
ってなるのだ。
何かの悲劇を経験しても、それはmonaという箱を通して
私の魂が経験したいことだったのだ。
monaという意識は傷ついていたかもしれないけど
魂的な視点を魂が持っていることにより
人間monaの意識が共振してくるような気もする。
これは不思議だな。
何日か前にひどく悲しい思いを思い出してしまったのに
もう今は何も思わない。
「あれは経験だった」とおもうだけ。
言いも悪いもないのだ。
不思議だ。