せっかく
新しい体験をしていても
自分の過去の体験にすり替えてしまうことって
よくあること。
これは過去のその体験に
何か葛藤を伴っているせい、または
過剰に価値をつけているせい。
例えば
私が息子の咳におびえていたあのとき、
リアルタイムで目の前で咳をしている息子に対する新鮮な「今」の感覚は
最初の一瞬、あるのだが
それはすぐに「過去の体験からの思い」にすり替わっていた。
なぜかというとその類似した体験に思いが載っているからだ。
つまり葛藤である。
これは、要注意で要観察。
悪いわけじゃないけど
繰り返している理由があり、それがメリットになることがあるから
いつまでもあるわけだけど
大抵の理由が【守り】のための理由なので。
くそ面白くない。
別にそれでいい人はいいのだけど
同じこと繰り返すだけだから。それも飽きるまで体験尽くせば必ず離れるのでいいのだと思うけど
私はどうも早く離れたがる。
ゆっくり味わい尽くすタイプと
私のように早食いで【どういう味なのかは今見極めるわ!】とがつがつと
その場で飽くまで食べつくす人もいるのだ。
そんなことでこれは
陰のことにも言えれば陽のことにも言える。
前にも書いたけど
喜びの再体験も同じで。
似たような出来事に出くわすと、そのもの今の現実に対する喜びだけじゃなくて
過去の自分の喜びの体験に置き換えてしまうことがあるのだ。
これは実感で感じた。
結局、相手の喜びも見ているんだけども、そう見えてるのは一瞬で最終的に自分の過去の喜びを見ているという。
そんなことである。
これは、無意識でありがちなことで、ほぼ気付かない。
これが分かりやすい人だと…親切が不自然で、おせっかいすぎる人。親切が押し付けがましい人、とかに見られる。
私の場合は化粧品販売で感じる喜びの中に
そういうときがあり(全部が全部そうじゃないのだけどね)
相手を喜ばす仕事っていうのは、時に自慰的だと感じた。
まあ、みんなそんなもんでしょ、と思うかもしれないけど
実はここは大事なところだなと今の私は思っていて。
人の体験を「人の体験」として
喜べるのが人間として、広いのかなと思うのだ。
自分と重ねなくても
ただただ喜べること。
自分と重ねなくても
ただただ悲しめること。
人の喜びを喜べる。それは誰でも単純に「出来てる」とおもうだろうけど
どうだろうか?
人を人として愛してる人には簡単なこと。
その相手が喜べばなんでも喜べる。
私も息子に関しても旦那にしても
何が何だかわからなくてもよろこんでりゃ「良かったね」と心から思う。
仮にその理由が人道的、社会的に反していると私が感じ、不快でなけりゃね。
こういう風に感じられる部分は、昔から私だって持っていた。
だけど、お客さんや友達や、昔の彼氏や義理の両親、家族などの体験を
自身の過去の再体験にすり替えてしまうことも
結構あったのだ。
それは不誠実なことかって…そうでもないのだけど
でも、本当に相手を見てたかって
「見てません」
というのが私の中の真実。
私がそうだっただけの話だけどね。
結局、自分のことばかり考えてるっていうね。
じゃあ、
どうして、相手を相手とみられるようになったかって
自分を自分として許したからなのかもしれない。
自分を受け入れられないうちは
真の他人を見ていない。
感覚のすり替えは日常的に起きるけど
意識的かそうじゃないかってのが
かなり重要だと私は思う。
どっちにしても
この感覚の自慰的なもんは
活用して何ぼかもしれない。
でも「意識的であれば」のお話だな。
意識的であれば、楽しい創作もできるのかもしれない。