人と自分を同じだと思って話をしやすい。
私は。
本当に。
子供を相手に
難しいことを言っても
理解不能領域で
「ふうん」と
流すだけ。
そんなふうに
大人同士でも題材によってはそんなやり取りがある。
関心を示すのは
その領域に対する感覚が
開きはじめたものだけ。
でも、もう開いている人にとって
当然過ぎて
関心すら示さないで
受け流すかも。
私はそっちの方(相手にとっては当然過ぎる事である上に興味がない)に受け取ってしまうが
実は、相手は
単純にそこの感覚が開いてないという、そっちがほとんどであるということ。
何事に関しても
そうだ。
私は感覚が開き切る前の方が
周りの人の言動や書くものに興味が高く、食い付きも良かった。
江原さんとかね~、あとスピリチュアルを語る人とかね。本、ブログとかね。
よく小学校高学年から高校生にかけてエロに夢中になるように…。
感覚が開きはじめて、開き切る前のあの時が一番探究心が深くなり
他人のそれに興味を持ち、知識や体験を集めて好奇心を満たそうとするようにね。
私、それも探究心強かったなあ 笑
今はその分野のあらゆることが
当然過ぎて反応もない。
私は時間をかけて、自分のセオリーを完成させた。
そしてそれは誰の経典でもなく、コピーでもなく自分で気付いた自分の実感を伴った自分だけの真実であり、唯一無二である。
そして真実は他の人の中にもそれぞれあると思う。
また、ある程度、人間であれば、みんな共通する部分を持ってると思う。
私にとってはこの持ち合わせる感覚は、決して特別ではなく、当たり前だからこそ
普通に自然にすっと話してしまうことがあるけど
さきほどの「ふうん」にであって
あ、と気付く。
その顔はまさに
理解不能、までいかないけど
よく分からん、みたいな。
思い切り具体的に変なこと言い始めているんじゃない。
会話の流れに沿ってただふと受けた一言だったり、そんなことなんだけど。
相手は
…。
ただの共感体質の人だったりして
恐れが多い人だったりして。
決してその領域が開いているわけじゃないのだ。
だから一緒だと思って
話すと
ちょっと「あ」と思う。
しかたない。
けど日常的にそれを「特別視せず」当然として
この人間世界を受け入れつつ仲良く生きる人が
たまに周りに居ればいいなと思う。
普通のその辺の人もさ。
スピリチュアルセミナーに足しげく通うような人ではなく
同じ職場の人とかでもってことだけど。
つまり、開き切った状態で肩の力が抜けている人が
周りに普通にいたらなあ、と思う。
たまに。
まあ、今でも…不便はないけど。
でも、たまに、当然のようにそんな風に見える世界を分かち合いたくもなる。
ここの場はその為の私のメモであり
はけ口でもある。