「みんなが自分」だって
実感できるときが
増えてきた
どんなときかって
みんながみんなであるために
自分が自分を守るために
ただただ生きているだけだと
気づくときだ
そうすると
自分がどうだから相手がこうなんだ、とか
とか
そういう発想自体が無くなる
ただ
人は
自分自身を生きている
自分自身に反応しながら
だから
私のせいで
あなたに悪い影響を与えることも無い
語弊があるけどね
それぞれが
一生懸命生きている
自分自身が自分自身であることを「快適」で
できるだけ「安心」していられるように
なんとか
言動や考え方をつくり
思考パターンをつくり
なんとか安定させようと
四苦八苦して
生きている
それが
人によってさまざまな
表現として現れるだけ
その人が快適でいる様子が
あなたに不快に見えるなら
その要素を見なければいい
無視すればいい
認識しなきゃ良いだけなのだ
つまりそれだけで
快適でいられる
でも気になっちゃうなら
その不快な要素は
あなた自身の要素であるのだ
たとえば風呂に入るのが嫌いな人がいる
風呂に入らないでいると
自分の匂いどんどんしてきて
それが好きだという奇特な人がいる
その人がですね
自分のそばを通るとする
それについて
「くせー」と思っても
すぐまた別のことを考える人
または「くせー」って思った後に
なんで風呂入らないんだ?
親はそうしつけなかったのか?
だいたい、マナーとして風呂ぐらい入れよ、とか
いろいろ付随して
イラッとしてしまう人
この前者は
くさい人は自分の人生に関係ないので
気に留めないって人だよね
後者も、実際
くさいことはどーでもいいのだ
ただ
自分の中のしがらみにとらわれていて
それがくさい人に映って自分を見ている人だよね
それだけのことだ
結局、風呂に入らない人は
何の影響も与えない
ただ何を見ても「自分」を感じるだけだ
つまり
そんな風に
人は自分を守ったり
自分を快適に保ったり
自分を誇りに思おうとしたりして
そんなふうに
生きている
だから
みんなが同じなのだ
誰だどうではなく