31.ある土曜の午後、富田林市内の某住宅街にて。

 梯子が積まれたトラックの横で、電機工事を終えたばかりと思しき、作業服姿の男性二人の会話から。


「給料ぐらい払うたらんかい!」

「うん、そやな」


 ほんま、そやそや!
 二人してもっと言うたれ!

 ノーギャラはアカンで! なめとんのか?!



 妻が読んでいます その58。

 『おとな養成所』

 槇村さとる 著

 光文社



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-おとな養成所



 ここ最近、仕事やら何やらでお付き合いが増えた。故に私のことをよくご存知でない方も多いので、改めてお知らせしておきたい。

 私は、52歳と11ヶ月。来月で満53歳になる。

 若く見ていただけるのは、比較的童顔な方なのと、あとは精神的に大人になっていないといった点が原因であろうか? サラリーマン社会からはとっくの昔にはみ出していて、長年親の脛を齧り、現在は所帯主である妻に支えられて、どうにか生かしてもらっている、だらしのない男である。

 有名な役者や芸人、作家等が逝くと、その破天荒な生き様が伝説のように語られことがよくあるが、私なんぞはそんな方々とは比べ物にもならない、破天荒とも呼べないどうしようもなくダラダラとした平凡な日々を過ごしている。


「ブランクは何年ですか?」

 ブランクなどないと思っている私だから、そんな質問をされてついついカチンときてしまうが、なるほど大人らしい世間様から見れば、私如きはほとんどずっとブランク状態にしか見えないのかもしれない。

 そうした輩であるこの私が、おこがましくも今度また、お喋りのプロを育てる養成所みたいなものを開こうかと画策を始めている。


 あ、けど……、大人を養成するつもりは毛頭ないので、注意されたし。



おとな養成所 [ 槇村さとる ]

¥1,365
楽天
 南海高野線「橋本(はしもと)」駅。


$西向きのバルコニーから アメブロ分室-南海橋本駅



 JR和歌山線「橋本(はしもと)」駅


$西向きのバルコニーから アメブロ分室-JR橋本駅



 もう20年前後昔の話になるが、かつて和歌山へ週に1~2度、CMのナレーション録りに通っていたことがあって、和歌山市内を中心に県下各地へも、ちょくちょく足を運んでいたことがあった。

 ここ橋本にも2~3度訪れたことはあったが、自宅と仕事現場との間を直線的に移動していたので、南海、JR二つの駅もただ乗換えに利用するのみで、駅周辺をじっくり散策したり探訪したりしたこともなく、これまで橋本の街のことは、ほとんど何も知らなかった。


 そんな橋本市で今春開局予定のコミュニティFMラジオ「FMはしもと」に、パーソナリティとして参加することになった!
 誠にお恥ずかしいことながら、このところ仕事が少なく、昨年からは生活費を稼ぐため、遂に畑違いのバイト仕事に従事するなど、苦しい生活が続いていたが、ようやく本来の自分らしい仕事に巡り合えて、今燃えている。

 
 2013年春、FMはしもとと共に新たなスタートを切る私に、どうぞご期待を!



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-FMはしもと
 30.とある月曜日の夕方、近鉄長野線「富田林」駅前にて。

 たった今電車から降りてきたと思しき、学生服姿の男子生徒さん独り。
 横断歩道を渡って、パチンコ屋さんの前を通り過ぎようとした時……。

「あっ!! 今日は少年ジャンプの発売日だ!!」と叫んで……。

「読みに行かねば……」と呟く……。


 立ち読みか? 友達のを借りるのか?

 たまには買って読んであげて下さいね……。
 南海高野線「初芝(はつしば)」駅。


$西向きのバルコニーから アメブロ分室-南海初芝駅


 1981(昭和56)年の9月、この駅で二度ばかし降りたことがある。
 某地方選挙に、学生アルバイトとして参加した際、選挙事務所から出してくれたクルマのお迎えを待っていたのが、この駅であった。

 大学がある地域の議員さんから、当時私が所属していたクラブの加入する団体を通じて電話が入り「おたくのクラブから何人か紹介してほしい」との依頼を受け、後輩数人を派遣する形となった。
 そして数日後、そのうち一人の後輩から電話で「先輩も来て下さい」と誘われ、結局私も3日間だけ参加することになった。

 随分とアクセントのおかしいベテランウグイス嬢に首を傾げることもあったが、3日間候補者とともに力の限り戦った。
 余談だが、後輩の中には運動員の男性と恋に落ちて、後に大学を辞めて結婚した者もいたのを思い出す。

 選挙から数日が経っても、なかなか選挙スピリッツが抜けきらず、道行く人に会う度、手を挙げて「お願いします!」と叫んでしまいそうになったこともしばしば。


 恐らく今日辺り、そんな当時の私と同じ思いをしているお方が、全国にたくさんいらっしゃるのではないかと思う。
 私はこれまで、あんな夕食を体験したことがない。後にも先にも、あの日食した病院食、そのたった一度だけのことである。

「はい、おまちどおさま! 夕食ですよ!」

 入院していた私の病室に、看護師さんが笑顔で運んできてくれたトレーには、5つのコップが載っていた。食堂や喫茶店などでよく見るのと同じタイプのコップで、形は5つとも同じだったが、中身の色がそれぞれ微妙に色違いではあった。白濁色の少し透明度が違うものが2つと、あとは黄色っぽいのと茶色っぽいのとオレンジ色のと、それで5つ。勿論、全部液体。他には何も載っていなかった。

 もう十六年も前のことになる。仕事で単身、香川県の高松に住み始めて、二ヶ月ほど経った頃。急性の扁桃腺炎で熱が下がらず、医者に「二、三日泊まっていきなさい」と言われ、しばらく入院することになった。慣れない土地でのハードワークに、体が悲鳴をあげてしまったらしかった。そして入院して初めて出された食事というのが、そのコップ5つだけの夕食であった。
 それまで既に何度か入院経験のあった私だが、さすがにこれには驚いた。喉が腫れて酷く痛むので、刺激物や固い物を避けたメニューになることを想像してはいたものの、せいぜいお粥や玉子、豆腐なんかが並ぶのだろうと思っていたら、出てきたのは何と5色色違いの水、水、水、水、水。食欲も一気に失せた。

 単身生活をしていた中での急な入院だったため、身の回りの世話をしてくれる人もいないといった状況。それに入院した病院は、大きな病院ではなかったので院内に売店もなく、パジャマや下着といった着替えや洗面具の調達など、買い物もままならず、勤めていた会社の同僚には随分と世話を掛けた。

 そんな世話の掛けついでに、ひとつだけ頼みごとをした。ファーストフード店のハンバーガーを買ってきてほしいと、お願いしたのである。まさかコップ5杯の食事ばかりが何日も続いた訳ではなかったが、それでも毎日の病院食はあまり口に合わず、どうしても他の物が食べてみたくなったのだ。しかし、同僚である事務員の女性は、私の希望を聞くなり、やや怪訝な顔をして言った。

「ハンバーガーですか? そんなの美味しくないでしょ」

 無論、私としてもハンバーガーがジャンクフードであることは十分認識もしていたし、正直なところ、それほど大好物と言えるほどの食べ物でもないのは確かだったが、食事制限がないとはいえ、自由に食べる物を選ぶことができないという状況下にある入院患者としては、その時理屈抜きに食べたくなった物が、有名ファーストフード店のハンバーガーだったのである。それなのに「美味しくない」のひと言で片付けられてしまったのには、ちょっぴり切ない気分にさせられた。

 頼みごとをした翌日、同僚の女性は病室にやってきて、ひと通りの業務連絡をした後、忘れていたことを思い出したかのように、自分の持ってきた手提げバッグの中から、ファーストフード店の小さな紙袋を取り出した。紙袋には、ハンバーガーが1個だけ、入っていた。たった1個? 私には少々不満な数ではあったが、それより入院初日に、腹いっぱい胸いっぱいになりながら無理やり流しこんだ、あのコップ5杯の水の不味さを思えば、数が少ないぐらいの不満は、すぐに消えた。何よりも食べたくて食べたくて仕方がなかった、念願のハンバーガーに有り付けたことで、幸せな気持ちでいっぱいになった。

 ジャンクフードと呼ばれ、高価なご馳走でも何でもない、手軽なファーストフードのハンバーガー。しかしながら、私はあの日泣きそうになるぐらい美味しかったハンバーガーの味を、今でも忘れることができない。



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-マクド
「アタシ、坂下りたいな…」

 U子の虚ろな視線は、既に芸大坂の方向を向いていた。

 壁に『南河内芸術大学』という文字の入った11号館の校舎をバックに、同級生の女5人で集合写真を撮った後、スクールバス乗り場から懐かしの学び舎を後にするべく、いざバスに乗り込もうとした時のことであった。


 小高い丘の上に建つ大学は、正門を入ってすぐに急な坂道がある。昔の学生たちは坂の下でスクールバスを降りた後、皆自力で歩いてこの坂を上り登校していた。そしてこの坂はいつしか学生の間で「芸大坂」と呼ばれるようになり、芸術を中心に学びいささか運動不足の学生たちにとっての難所であり、また大学の象徴的な場所でもあった。

 その思い出深い坂道を、さっきバスに乗ったままいとも簡単に上ってきてしまったことが、U子には少し許せなかった。後輩Kのガイドで30年振りの母校を満喫したU子だったが、ひとつだけ心残りに感じていたのが、この芸大坂。大学時代の4年間、毎日歩いて上り、毎日歩いて下りていた芸大坂を、バスで乗って上るのではなく、あの学生時代の日々と同じように、やはり自力で体感したかった。

「え? ホントに行くの? 宴会間に合わなくなるよ。先バス乗って行っちゃうよ!」

 ちょっと呆れた表情でやや冷たい言葉を投げかける仲間たちを尻目に、U子は足早に芸大坂へと歩を進めた。

「私も行きたい!!」

 ひときわ元気な声で、Y江が後に続く。

「じゃあ行きますか?」

 後輩Kも2人に並んだ。
 すかさずY江がU子を気遣う。

「けど大丈夫!?」
「大丈夫だよ。だって毎日上り下りしてたんだから!」

 弾んだ声で、U子が答えた。

「変わってないよね、この坂」

 弾んだU子の声とは対照的に、後輩Kが淡々とした口調で解説する。

「こっち側に歩道が出来たんですよ。昔はほらそこの右側にある石垣みたいなのの上を歩いてたでしょ」
「そうか~、歩道が出来た分広くなったんだ~!」

 変わらずテンションの高いU子。
 それよりもなおテンションの高い声で、Y江が続ける。

「あ、この木あったよね!!」

 1本だけ坂道にせり出している木を指さして言ったY江の言葉に、半ば上の空で携帯を開きパシャリパシャリと写メを撮り続けるU子。

「…うん、あった、よね…」

 と、生返事で答えるU子。
 先輩2人の噛み合わないやりとりを見て、後輩Kがカラカラと笑う。そして坂を下りた所で、Kは蘊蓄話をひとつ。

「バスが坂を上るようになった当初、慣れない運転手が、バスを門柱に激突させてしまったという、ちょっとした事故もあったんですよ」

「Sマンション見えるかな?」

 せっかくの蘊蓄話よりも、かつて自分の住んでいたマンションが気になっている先輩の態度にめげることなく、Kは遠くを指さしながら言う。

「あれです。あそこに、屋根が煤ボケた緑に見える、あのマンションがそうですよ。たぶんその後オーナーさんが変わったんでしょう、今は別の名前の建物になってます。不動産屋のホームページ見たら、月3万8千円て出てましたよ。ええ、学生だけじゃなくて一般の人も住めるみたいですね」

 無理にでも蘊蓄話で押し通そうとガイドする後輩K。
 さて戻りましょうかと、一度出た正門を再び入る3人。

「え? どこ? どこの門柱にぶつかったって? あれ? へえ、なるほど段差があって難しそうだもんね!!」

 Y江のワンテンポもツーテンポも遅れた相変わらずの反応に、軽いめまいを感じる後輩K。
 改めて3人で坂を上り始めたところで、背中越しに広がる鮮やかな夕景にふと気付く。振り返り立ち止まって真っ赤な夕陽を写メに収めようと、U子がまた携帯を開いた。

「あのクレーン、ちょっと邪魔だよね」



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-芸大坂からの夕陽


 工事現場と思しき場所にあるクレーン車のアームが、丁度PLの塔に迫るようなシルエットに見える。

「うん、やっぱりあの木あったよ!!」
「うんうん、あったあった。私も確かあったと思うよ!」

 相変わらず坂道にはみ出した1本の木にこだわるY江と、写メを撮りまくりながら歩くU子とのやり取りが、やはりどことなく噛み合わない。

「最近のオープンキャンパスで見学に来た子の中には『あんな坂嫌だ』とか何とか言って、受験しに来ない高校生もいるらしいですよ」

 と、後輩Kがまた蘊蓄を垂れる。

「そんなに大した坂じゃないじゃない! 全然しんどくなかったよ!」

 U子の言葉に3人で頷きながら芸大坂を上りきり、すぐバス停に向かうと「先行っちゃうよ」って言っていた他の4人が待っていてくれた。

「ごめんね、有り難う!」
「どうだった? 満足? 納得した?」

 そんな言葉と笑顔を交わしながら、満員のバスに飛び乗る7人。早速、車内の吊皮や手すりに必死にしがみつく7人。


 後輩である若い現役学生らに混じって、50を過ぎた6人のオバサンと1人のオジサンとそれぞれの思い出を乗せたスクールバスは、滑るように芸大坂を駆け下り「南河内芸大前」と記された交差点を大きく右折した後、一路、喜志駅を目指しそのスピードを上げていった。



(文中の敬称は略させていただきました)
(これは、実際にあった出来事を基に創作した、フィクションです)
 29.富田林市内の某医院の待合室。老女の会話より。

「金剛大橋が水に浸かったら、サンプラなんかもう海底やがな!」



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-サンプラザ


 
 比較的災害の被害を受けることが少ない、南大阪を表現したかったのだろう。

 石川に架かる金剛大橋近くにあるスーパマーケット「サンプラザ富田林店」は、川の堤防からもなお低い土地、いわゆる「ゼロメートル地帯」にある。故に万が一川が氾濫して洪水になった際は、 なるほど店はどっぷり水に浸かってしまうことが想像される。

 それにしても、川の氾濫でいきなり「海底」とは……。

「私な、雷落ちるとこ見てんで! そらもう辺り一面真っ白やがな! PLの花火の最後んとこみたいやったで!」


 いかにも富田林のオバアチャンらしい、発想が面白い!


スーパーマーケット「サンプラザ」
http://www.super-sunplaza.com/
 妻が読んでいます その57。

 『きのう何食べた』

 よしながふみ 著

 講談社



$西向きのバルコニーから アメブロ分室-「きのう何食べた?」



 私は子供の頃、偏食が激しかった。食べるということに、あまり興味を抱かなかった。太宰治の『人間失格』に「食事の時刻を恐怖しました」といった一文があるが、昔の私も丁度似たような感覚で、食事という行為が面倒で面倒で、食べない私に無理に勧める家族とのやり取りが、毎日苦痛でさえあった。

「おまえが美味しく作ってやらんからや!」

 父の心ない言葉に、母には随分と辛い思いをさせた。

 食べない私は、当然ながら痩せ細っていた。魚屋の店頭に並んでいた長細いイワシを見た人から「河村さんとこの子ぉみたいや!」と例えられたりして、ご近所の笑いものにされるぐらい、とにかくガリガリの体型であった。
 お陰で体も弱く、何度も病院のお世話にもなり、家族には全く心配のかけ通しであった。

 そして、高校3年の時。
 長崎の佐世保で、独り下宿生活を始めて間もない日曜日。下宿屋の賄いが休みなのをいいことに、面倒くさがり屋の私は一日ほとんど食事を摂らず、翌日の月曜日に登校。体育の時間にぶっ倒れた。

「メシを食わんと倒れる」

 そう実感した私が、食べることに初めて積極的になったのは、その時からである。

 積極的と言っても、始めは必要に迫られて、嫌々ながら無理やり押し込むように流し込むように食べていた私も、やがて食べ物の美味しさや食事の楽しさを実感出来るようになっていったつもりだった。しかし……、最近気づいたのだが、私は過去に食べた物を、忘れていることがよくある。特に我が家で食べた昨日の食べ物が、しっかりと記憶に残っていないことがままある。

 その辺り……、私は未だに食に対する執着のなさを引き摺ってしまっているのかもしれない、と、ついつい考え込んだりしている。


 さて昨夜の晩飯は、妻が初めて生魚から調理したという、鯖の味噌煮。上の写真にはないこの本の第6巻で紹介されていたのを参考に、料理したものとか。いや~、美味しかった! 恐らくは死ぬまで忘れることが出来ない、鯖の味噌煮になると思う。たぶん……。
 先日、病院の待合室での、母と私の会話より。


母「何か目ぇが突っ張った感じがする」

私「目ぇが?」

母「(私に瞬きして見せながら)目ぇおかしないか?」

私「……いや目ぇだけちごて、顔も頭もおかしいわ」

母「悪い奴!(と左手の甲で私の足を軽く叩き爆笑)」

二人とも大爆笑。


 診察までの約1時間、このやりとりを二、三度やった。お陰で退屈しない待ち時間となった。


 後になって気がついた。
 数ヶ月前から認知症の薬を飲み始めている母ではあるが……、母は決してボケではない。確実にツッコミなのであった。