忘れられない光景がある。


荒い画面の中ではにかんだ眩しい笑顔

夢のステージで満面の笑みで振り返った牡丹の花

会場の真ん中から黄丹色に染まっていった有明

太平洋の傍らで「全部君とだった」と交わした視線

光に手を伸ばし「君が恋しい」と歌い進む背中

広い広いステージの中央に、必ず変わらずそこにある同じ星を見たあの日



10年以上の時が経とうとも、電子に記録された映像に記憶が上書きされていっても、いくつもの新しい景色を見ても、その瞬間だけはこの目で見たまま鮮明に焼き付いている。





永遠と一瞬について考えたことがある。

永遠とは存在しないモノだ。有り得ないモノ。

すべての形あるものは朽ちる、老いる、壊れる。

物事にも終わりがあり、変化がある。

“永遠”はこの世界に存在しない。


ではなぜ存在しないモノに名前があるのか。

人は何を“永遠”と呼んだのだろうか。


それは、「いつまでもこうしていたい」「終わって欲しくない」と思うような“一瞬”に感じる儚さ、その感情ではないだろうか。

存在しないモノというのは、それが『ない』と強く強く思い知らされる時にしか認識できないのではないだろうか。

終わることを明確に突きつけられるその“一瞬”こそが“永遠”であり、私の“永遠”は私の中にだけ残るものなのではないだろうか。


そう考えた。



つまり、だ。終わっていったライブ1つ1つが、過ぎていった時間1つ1つが、交わした言葉の1つ1つが、永遠と呼べるのではないだろうか。私の中にある終わっていった“大切”たち。それだけがきっと『真の永遠』なのだ。

そしてその中でも強く強く焼き付いているあの光景達。

これらは、私にとって『とびきりの永遠』に成ったのだと思う。



私はそれを「嬉しい」「楽しい」「幸せ」そんな感情だけにしたかったのだと思う。大好きで大切な人達との“永遠”であれば尚更。

でも、どうしたって「寂しい」、「苦しい」、「恋しい」。

向けたくない感情を、“何か”にしたかった。

これがあったからここに来れた、と未来に繋がるものにしたかった。私にとって、また別の大切たちにとって、プラスになるものにしたかった。


だけど、「寂しい」、「苦しい」、「恋しい」。

それもまた美しい『永遠』の1つなのだと教えてもらった。そのままでいいのだと教えてもらった。




人が豆粒くらいにしか見えなかったメインステージ

9色に輝く会場

長い花道を駆け抜けるキラキラなアイドル

大きなモニターに映し出された笑顔、涙、愛。


夢みたいだったなぁ、と思うあの永遠を、私は永遠に恋しく想うのだろう。






それを教えてくれた人達のステージを初めて見た時の、パチパチと弾けるような純度100%の「楽しい」。

それも私のとびきりの永遠の1つ。