のんびりするということ | hello-candy-candyのおかりなブログ

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ひねもす土の音(オカリナ)の響きに興をもよおせど、しばし徒然なるままに由無し事を綴りけるなり。

 1日1曲ずつオカリナを演奏しています。

  今日の曲は「夜空ノムコウ」です。

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 私がまだ現役だった頃は、慌ただしい毎日を送っていた。日本人は忙しくて落ち着きがなくてだめだ、もっと欧米人のようにゆったりとした生活をすべきだ、とよくマスコミが言っていた。では、具体的に欧米人のようにゆったりとした生活とは、どのような生活を指していたのか。例えば、1カ月のバカンスとか、街角の屋外カフェレストランでのランチ、ティータイム、ディナーとか、美しい花々が咲き乱れるガーデニングとか、森の中の小さな湖にボートを浮かべた釣りなどだろうか。

 

 そもそも余裕とか、ゆとりのある生活とは、どのような生活なのかと考えたが、答えは見つからないままだった。時は過ぎ、週末田舎暮らしを体験し始めた。確かに田舎の生活は刺激が少ない。若い人が田舎から都会へ出て行くのが納得できた。一方で、あぁこれがいわゆる余裕とか、ゆとりのある生活なのかと実感もした。空気や水はおいしいし、豊かな周囲の自然が誰に邪魔されることなく独り占め出来て、しかも自然にはぐくまれた様々な野菜の生育に一喜一憂している時は、これぞ現役時代に夢見た桃源郷の世界だった。が、そんなに素晴らしい環境に何年間も浸かっていると、いつかは慣れが来て、たいくつを感じ始める。やはり3年とはよく言ったもので、一つの区切りではある。私自身振り返ってみても、確かにゆとりは感じられたものの、のんびりという感じはしなかった。多分ゆとりは、相対的なものであり、何かを所有することによって、しかも短時間に感じられるものだからだろう。対して、のんびりは何かを手放すことであり、長い時間にわたる感覚なのだろう。

 

 それで思い当たるのは、TVや新聞などの世間情報がない環境では、煩わされるものがなく浦島太郎のように、日々が心穏やかに過ごせるということだ。昔、米国で暮らしたとき、日本のマスコミ情報という雑音が殆ど届かなかったので、実にのんびりした日々をすごせた、と今にして思う。やはり、のんびりするには、インターネットを含めて、マスコミという雑音を遠ざける不退転の決心が必要なようだ。しかし、それはそれで大げさに言えば、世間とのつながりを断ち、自主自立の決意をするということだ。すべてを自分の判断で行うということ、つまり山籠もりの覚悟が必要となる。結局、今の私はその決断ができないままに、このままざわついた日々を続けている。そう言えば、「ざわついた金曜日」という面白い番組があったっけ。同番組を見ながら、のんびりできれば、それで佳とするか?
 



▼Myオカリナ演奏

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夜空ノムコウ