人生の運不運とは | hello-candy-candyのおかりなブログ

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ひねもす土の音(オカリナ)の響きに興をもよおせど、しばし徒然なるままに由無し事を綴りけるなり。

 1日1曲ずつオカリナを演奏しています。

  今日の曲は「世界の約束」です。

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  自分の時代を肯定できるのは過去だからか

 

 私たちのような団塊世代の人生は、時代の幸運に恵まれていたと思う。勿論、皆が平等にその幸運に与れたわけではないけれども、少なくとも多くの人たちは、多かれ少なかれ、恩恵に与れたのではないか。幸せな世代だと言えよう。たが、そう思うようになったのは、振り返ると1980年代以降になってからだったように思う。

 それまでは、戦後の貧しさに、そして、大正製薬のリゲインの「24時間戦えますか?」のCMに代表される、あわただしさの中で、じっくり自己を見つめ、物事を味わうという気分は持てなかった。ようやく近年になって、あたりを冷静に客観的に見ることができるようになった。そして気付くのは、良い時代を過ごせたということだ。父母や祖父母が過ごした時代とその人生を想う時、彼我の違いに、自分は恵まれていた、と感謝の念が沸く。

 

  もう一度やり直す気にはなれない

 

 かつてどれほど自分が、日本という貧しい国に生まれたこと、父母のもとに生まれたことを、恨んだことか。今こうして健康で、不自由なく、幸せに生きていられるのは、自らの努力の賜物だと思いがちだ。しかし、もう一度人生をやり直してみるかと問われれば、再び現在地点にたどり着ける自信はない。         

 仮に精一杯努力したからと言って、必ずしもそれが報いられ、幸せに結び付くかどうかは、その時の状況次第であって、別の話だ。健康にしたところで、特別、継続的に何かに励んだかと問えば、そんなものはない。日々、わずかでもベターだと思えることをやろうとしていたに過ぎない。人生上の、あるいは仕事上のことも同様だ。だが、その積み重ねられたこの結果には、自分自身の力だけでは及ばない、何か別の力のようなものを感じざるを得ない。それがお陰というものなのだろうか。

 



▼Myオカリナ演奏

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世界の約束